夜が深まるにつれて、観測塔の明かりがひとつ、またひとつと落ちていく。蒼汰は書庫の石段に腰を下ろしたまま、かじかむ手の指先を見つめていた。夜宮。三百年前に記録から抹消された地図師の名前が、舌の上で溶けずに残っている。
その記憶は、蒼汰の白紙に還った。
霞鳥の言葉が耳の奥で反響する。ならば自分の中に、会ったことも触れたこともない人間の記憶が眠っているということなのか。蒼汰は己の胸に手を当てた。何も感じない。心臓の拍動があるだけで、特別な熱も、光も、ない。けれどそれが当たり前なのかもしれなかった。知らないということは、感じないということだから。
羽ばたきの音がした。
空気を薄く裂くような、乾いた音だった。蒼汰が顔を上げると、霞鳥が塔の縁に降り立っていた。月光の中でその姿は白く、しかしどこか——どこか、おかしかった。
「霞鳥」
蒼汰は立ち上がって目を細めた。鳥の翼の先端が、淡く滲んでいる。色が消えているのではない。形が、消えている。羽根の端から順に、夜の闇に溶け込むように輪郭が薄れていた。まるで古い写本のインクが、経年で滲み消えていくように。
「気づいたか」
霞鳥は低い声で言った。人間の声帯では出せないはずの音域で、しかし言葉は明瞭に届く。蒼汰は思わず一歩踏み出した。
「いつからだ。いつからそうなっている」
「さあ。気づいたのは最近のことだが、始まったのはずっと前かもしれない」
霞鳥は翼を折り畳み、首を傾けた。その動作はいつもと変わらないのに、蒼汰には見ていられなかった。鳥の翼の透明化が、まるで時計の針のように、じりじりと進んでいる気がした。
「お前は今日、俺に言いに来たんだろう」
問いかけではなかった。霞鳥は少し沈黙してから、羽根を一枚、ゆっくりと広げた。
「そうだ」
その羽根を、蒼汰はかつて触れたことがある。第三話の夜、書庫の窓から迷い込んだ霞鳥の羽根が一枚落ちて、拾い上げた時のことを思い出した。紙のような手触りだと思った。古い地図の、羊皮紙に似た質感だと。
「私は三百年前から飛んでいる」
霞鳥の声は静かだった。感情の起伏がなく、しかし静かさの底に何かが沈んでいるような、重みのある静けさだった。
「三百年」と蒼汰は繰り返した。
「夜宮が最後に放った記憶の欠片から、私は生まれた。それだけは確かなことだ」
蒼汰は石段に座り直し、霞鳥と同じ高さで向き合った。風が吹いて、塔の上方で星座がゆるやかに揺れた。いくつかの星が、以前よりも明らかに薄い。夜空の消滅は、ゆっくりと、しかし確実に進んでいる。
「夜宮の記憶から生まれた、というのはどういうことだ」
「地図師は地図に記憶を写す。だが夜宮は最後に、地図ではなく空へ記憶を放った。空に向かって記憶を解き放つと、それは欠片になって散らばる。その欠片が凝って、形を持つことがある」
「零花のように」
蒼汰が呟くと、霞鳥は静かに瞬いた。
「そう。零花のように。だが私は落下した欠片から生まれたのではない。夜宮が意図を持って放った欠片から生まれた。使者として、届ける者として生まれた」
「何を届けるために」
霞鳥は答えなかった。少しの間、沈黙が横たわった。夜風が石造りの塔を回り込み、かすかな唸り声を上げた。
「それが——」霞鳥はようやく言った。「それが、わからない」
蒼汰は眉を寄せた。
「わからない?」
「私は自分が何の記憶から生まれたかを知らない。夜宮が何を届けようとしたのかを知らない。三百年間、この夜空の下を飛び続けながら、ずっと——ずっと知らないままだ」
その声に、初めて揺らぎが混じった。蒼汰はそれを聞いて、胸の奥が鋭く痛むのを感じた。三百年。自分が何のために生まれたかも知らないまま、三百年間飛び続けた存在。その孤独の重さは、想像するだけで眩暈がするようだった。
「だから俺のところに来ていたのか」
「お前の白紙に夜宮の記憶が還ったと知った時、私は初めて希望を持った。お前が記憶を取り戻せば、私が何を届ければよいか、わかるかもしれないと」
霞鳥の翼が、また少し透けた。蒼汰にははっきりと見えた。透明化は止まっていない。じわりじわりと、羽根の芯まで侵食している。
「霞鳥、お前は消えるのか」
声が震えた。抑えようとしたが、抑えられなかった。霞鳥は真直ぐに蒼汰を見た。鳥の目は金色で、三百年分の夜を写している。
「使者が役目を果たせぬまま消えることは、あってはならない。だが——もし夜空の星座が消え続ければ、私もやがては消える。夜宮の記憶の欠片から生まれた私は、夜空の星座と同じ素材でできている。星が消えるなら、私も消える」
羊皮紙のような羽根。古い地図と同じ素材。それはつまり、夜空を形成しているシステムと同じ起源を持つということだ。蒼汰は奥歯を噛んだ。
「ならば急がなければならない」
「急いでも、お前の白紙を無理に開こうとすれば壊れる。記憶は、解こうとするほど固く結ばれる。それを誰よりも知っているのは、地図師のはずだ」
「わかっている」蒼汰は拳を握った。「わかっているけど——」
言葉が続かなかった。わかっている。わかっていても、目の前で霞鳥の羽根が透けていく様子を見ていれば、焦るなという方が無理だった。零花は今頃、宿舎で眠っているだろうか。縹は闇市の奥でまだ記憶を売り買いしているだろうか。天弦は——天弦は、これを知っているのだろうか。
「霞鳥」と蒼汰は言った。「お前が何を届けるべきかを、俺が必ず見つける。三百年待ったなら、もう少し待ってくれ」
霞鳥はしばらく蒼汰を見つめていた。その金色の瞳の奥に、何かがある。悲しみとも怒りとも違う、もっと古くて静かな感情が。
「お前には、夜宮の面影がある」
不意にそう言って、霞鳥は翼を広げた。透明化した羽根の先が夜風に揺れ、光の粒が散るように消えていった。
「ただの偶然か、あるいは——」
続きは聞こえなかった。霞鳥は石段を蹴って夜空へと舞い上がり、消えゆく星座の間に溶け込んでいった。蒼汰はその軌跡を目で追い、見えなくなってもしばらく空を見上げ続けた。
夜宮の面影。
自分の白紙の記憶に夜宮の記憶が還った。霞鳥は夜宮の欠片から生まれた。ならば蒼汰と夜宮の間には、単なる偶然では説明のつかない何かがある。
それは、恐ろしいことだった。自分が自分ではない誰かと結びついているかもしれないという感覚は、地面が溶けていくような不安定さをもたらした。しかし同時に、蒼汰の胸の底で、白紙の記憶がかすかに熱を持った気がした。
ほんの一瞬だけ。炎ではなく、遠い星の光のような、小さな熱。
蒼汰は目を閉じて、その熱を確認するように胸に手を当てた。消えた。もう感じない。夢だったかもしれない。
しかし確かに、あった。
明日、零花に会わなければならない、と蒼汰は思った。霞鳥が透けていることを、伝えなければならない。そして天弦にも——天弦に問わなければならない。老師は夜宮の記録が抹消された経緯を、本当に知らないのか。あるいは知っていて、沈黙しているのか。
夜空で、また一つ星が消えた。
静かに、音もなく、まるで最初からそこになかったかのように。