地図に灯りが宿った夜から、蒼汰は眠れなかった。
零花の指が触れた瞬間、地図の余白に浮かんだあの文字がまぶたの裏から離れない。*夜空は嘘で作られた。本当の星座を取り戻せ。*霞鳥はそれを「何世代にもわたる者たちの訴え」と言った。一人の叫びではなく、時を超えた無数の声が重なり合って、ようやく届いた言葉なのだと。
ならば、その声をずっと前から聞いていた者がいるはずだった。
天弦だ、と蒼汰は思った。考えるまでもなかった。
朝が来るのを待ちながら、蒼汰は薄暗い自室の窓から夜空を見上げた。いつもより星が少ない気がした。あるいは、ずっと前からそうだったのに、今夜初めてそれを恐ろしいと感じているだけかもしれない。星座は記憶だ。消えていく星は、誰かの生きた証が削られていく音だ。それをギルドの頂点に立つ男が知っていて、黙っていたとしたら。
蒼汰は、夜明け前に部屋を出た。
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天弦の私室は、観測塔の最上層に近い廊下の奥にある。ギルドの見習いが訪ねる場所ではない。それでも蒼汰の足は止まらなかった。怒りというより、それ以上のもの——名前のつけられない圧力が胸の中で膨らんで、全身を前へ押し出していた。
扉を叩くと、間を置かず「入れ」という声がした。
天弦は眠っていなかった。大きな机の前に座り、羽根ペンを手に持ったまま、何かの文書を広げていた。蒼汰が入ってくるのを見て、老人は静かにペンを置いた。驚いた様子はなかった。まるで、来ることを知っていたかのように。
「こんな時刻に来るとは、よほどのことだな」
「知っていたんですか」
蒼汰は挨拶をしなかった。声が予想より低く落ち着いて出たことに、自分自身が少し驚いた。
「夜空のことを。消えていく星座のことを。あの地図に刻まれたメッセージのことを——先生は、全部知っていたんじゃないですか」
天弦は答えなかった。すぐには。
部屋の中は静かだった。壁際に並んだ書棚が暗がりの中で黒い山脈のようにそびえ、窓の外では夜がまだ深く澱んでいた。蜜蝋の燭台が一本、机の端で小さく揺れていた。その炎だけが生きているように見えた。
「……知っていた」
天弦がようやく口を開いた。
たった三文字だった。けれどもその三文字は、蒼汰が建物ごと崩れるような感覚を覚えるのに十分だった。
「しかし話すには時がある」
「時がある?」
蒼汰は一歩前に出た。声が少し上ずった。今度は抑えが利かなかった。
「先生、それは言い訳じゃないですか。夜空が消えていってるんです。人々の記憶が消えてるんです。それを知っていて、時を待つとはどういうことですか」
「怒るのは当然だ」
天弦は静かに言った。謝罪でも弁明でもなく、ただ事実として述べるような口調だった。その落ち着きが、かえって蒼汰には刺さった。
「怒られるべき場面では怒られなければならない。それもひとつの道理だ。お前の怒りを、私は受け取る」
「受け取るだけじゃ足りません。説明してください」
「……そうだな」
老人は立ち上がり、窓の方へ歩いた。ガラス越しに夜空を見上げる横顔は、蒼汰が知っているどの表情とも違った。師としての威厳でも、温かな笑みでもなく、ただ長い年月を生き延びた者だけが持つような——どこか疲れた、やさしい、悲しい顔だった。
「私が異変を知ったのは、お前が生まれるずっと前のことだ。四十年以上前になる」
四十年。蒼汰は言葉を失った。
「その頃、私はまだ一介の地図師だった。ある夜、観測記録を照合していて気がついた。特定の記憶星座の光量が、長い時間をかけてわずかずつ減っていると。最初は誰も信じなかった。観測誤差だと言われた。私自身も疑った。だが、年が経つにつれ誤差では説明のつかない数値が積み重なり——そうこうするうちに、私は夜宮という名に行き着いた」
夜宮。その名を蒼汰は以前にも聞いた。三百年前の地図師。夜空そのものを設計した者の名を。
「先生は夜宮のことを知っていた」
「研究した。一人で、長い時間をかけて。ギルドに報告しなかった理由はひとつだ——夜宮が何を作り、何を封じたかを理解した時、私は真実を開示することの代償が、あまりに大きすぎると判断した」
「代償?」
「夜空が人工のシステムだと知れれば、人々は記憶の保存そのものへの信頼を失う。星座が崩れるより先に、社会の秩序が崩れる。私は——それを怖れた」
天弦の声は、最後のひとことだけかすかに揺れた。
蒼汰はしばらく黙っていた。怒りはまだ胸の中にある。消えてはいない。けれどもその下に、別の何かが滲み始めていた。悲しみに似た、透明な重さ。
「先生は、一人で抱えてきたんですか。四十年間」
「抱えていたというより——逃げていた、と言う方が正確かもしれない」
老人は窓から離れ、椅子に戻った。座った拍子に背中が少し丸くなった。その丸みに、蒼汰は初めて天弦の老いを見た気がした。威厳の衣の下にある、ひとりの疲れた人間を。
「時がある、と私は言った。それは本当のことだ。だがお前が怒るように、その言葉は同時に——私の臆病の言い訳でもある。お前にはそう聞こえるだろう。そして、そう聞こえることは正しい」
「……先生」
「今は、これだけを信じてほしい。お前がこの問いを持って私の前に立った今夜が、私の言う『時』のひとつだということを」
それ以上は語らなかった。天弦は文書に目を戻し、ペンを手に取った。続きを書くつもりらしかった。話は終わりだ、という意志の表れだった。
蒼汰は部屋を出た。扉を閉めた後、廊下の壁にそっと額を押しつけた。石の冷たさが額に染みた。
怒りはまだある。不信もある。先生が四十年間知っていたという事実は、消えるものではない。
だが怒りより深いところで、もっと静かな何かが動いていた。天弦が「逃げていた」と言った時の声の色。あの瞬間だけ、老師は老師ではなく、ただの人間に見えた。それがなぜこんなに、蒼汰の胸を痛くするのか、自分でもうまく説明できなかった。
廊下の細い窓から夜空が見えた。星がまた一つ、薄れているように見えた。気のせいかもしれない。気のせいではないかもしれない。
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自室に戻った蒼汰は、零花が扉の前に座って待っているのを見つけた。
「遅かったね」と零花は言った。何も訊かなかった。ただ、蒼汰の顔を見て小さく眉を寄せた。
「怒ってる?」
「……少し」
「悲しんでる?」
蒼汰は答えるのに時間がかかった。
「わからない。多分、両方」
零花はしばらく蒼汰の顔を見ていた。他者の感情を追体験する少女は、今この瞬間、蒼汰の胸の中の名前のつかない澱みをそのまま感じているのだろう。それが零花には苦しくないといいと、蒼汰は思った。
「天弦先生の部屋に、灯りがついてた」と零花が言った。「来る時も、今も。ずっと消えてない」
蒼汰は振り返った。観測塔の上層に向かって視線を上げると、一枚の窓だけが黄色く滲んでいた。明け方近い夜の中で、小さく、頑固に、燃え続けていた。
あの灯りの下で、天弦は何を書いているのだろう。四十年分の沈黙を、今夜ようやく言葉に変えようとしているのだろうか。それとも——まだ、何かを隠しているのだろうか。
蒼汰にはわからなかった。わからないまま、夜が明けていこうとしていた。