眠れないだろうと思っていた。
けれど零花は、蒼汰の部屋の窓際に腰を下ろしたまま、いつの間にかまどろみの中へ落ちていた。老師の部屋から漏れる灯りを二人で見つめていたのに、気づけばその灯りも、蒼汰の低い呼吸も、遠い水の底へ沈むように遠ざかっていた。
夢の入り口は、いつも星の匂いがする。
零花にとって夢とは、他者の記憶が流れ込んでくる場所だった。ひとの喜びや怒りや後悔が、言葉にならない濁流となって押し寄せてくる。追体験するたびに零花は揺さぶられ、自分がどこにあるのかわからなくなる。だからこそ眠ることが少し怖かった。自分のものではない感情に溺れて、朝には輪郭が滲んでいる気がするから。
今夜の夢は、しかし、いつもと違った。
静かだった。
広大な夜が広がっていた。地面も天も区別がなく、ただ黒い空間が果てしなく続いている。零花はその中に立っていた。正確には、浮いているのか沈んでいるのかもわからない。重さがなく、方角がなく、ただ「いる」という感覚だけがあった。
遠くで、何かが光っていた。
近づくのではなく、光のほうが零花を引き寄せるように、景色が滑らかに動いた。気づけば零花は、その光の背後に立っていた。
ひとがいた。
地図師の服を着ていた。濃紺の長衣に、肩から斜めに走る銀糸の刺繡。地図師ギルドの正装だと零花は知っていた。蒼汰が式典のたびに着る、あの重たそうな布。しかし目の前の人物が纏うそれは、くたびれて色褪せ、あちこちがほつれていた。何十年も着続けたような、疲弊した服だった。
人物は、宙に向かって手を動かしていた。
筆のようなものを握り、見えない紙に何かを書いている。いや、書いているのは空そのものだった。指先が通った跡に、淡く光る線が引かれ、星が生まれ、星が繋がり、星座の形を成していく。書き換えている、と零花は直感した。この人は、夜空を書き換えている。
どれほど見ていたのだろう。
やがて零花は気づいた。人物の輪郭が、薄くなっている。
最初は見間違いだと思った。夢の中の光が揺れているだけだと。しかし違った。筆を走らせるたびに、人物の体の一部が透けていく。肩が薄れ、腕が朧になり、また一本の星座を描き終えるたびに、その薄れた部分が戻らない。消えていく。少しずつ、確実に。
消えることに、気づいていないのだろうか。
いや、と零花は思った。気づいている。
後ろ姿しか見えないのに、なぜそう確信できるのかはわからない。ただ、その背中の曲線が、肩の落とし方が、そう語っていた。この人は知っている。書くたびに自分が減っていくことを。それでも筆を止めない。
零花の喉が、締め付けられるように痛んだ。
恐ろしい光景のはずだった。人が少しずつ消えていくのだから。けれど零花の中に湧き上がってきたのは恐怖ではなかった。静かで、深い、悲しみだった。自分のものだと確かめる間もなく、胸の底に根を張るような悲しみ。
書き換えを終えた星座が、夜空の高いところへ昇っていった。輝いて、固定されて、動かなくなった。その星座を見届けるように、人物が少し顔を上げた。零花には横顔すら見えなかった。ただ、その動作に、どこか満足に似た何かが滲んでいると感じた。
また筆が動く。
また体が薄れる。
零花は声をかけようとした。待って、と言おうとした。あるいは、なぜ、と問おうとした。しかし夢の中では口が動かない。自分が記憶の欠片から生まれた存在であることを、零花はこういう瞬間に思い知る。ここでは自分はひとつの観測者に過ぎない。干渉できない。ただ見ている。
その無力さが、悲しみに厚みを加えた。
三つ目の星座が夜空に固定されるころ、人物の体はもう半分以上が消えかけていた。長衣の裾が霧のように拡散し、持っていた筆が、指ごと夜の空気に溶けていく。それでも人物は手を動かし続けた。正確には、残った体の部分だけを使って、懸命に書き続けた。
零花は思った。この人は何かを守ろうとしている。
あるいは、誰かを。
最後に残ったのは、右手の一部だけだった。筆を握る指だけが夜の中に浮かんでいた。その指が最後の一線を引いて、小さな星をひとつだけ生み出した。星は他の星座には繋がらず、単独で光っていた。不完全な、孤独な、しかし確かに輝く、ちいさな光。
指も消えた。
夜空には、書き換えられた星座と、ひとつの孤独な星だけが残った。
零花は長い時間、その星を見つめていた。泣いているのかもしれなかった。夢の中では涙が出るのかどうかわからないが、何かが頬を伝う感覚があった。
これは誰の悲しみだろう、と零花は思った。
いつもの夢なら、流れ込んでくる感情には持ち主がいる。誰かの記憶の残滓が零花の体を通り過ぎていく。しかし今夜のこれは違う気がした。流れ込んでくるのではなく、零花の内側から湧いてくる。はじめて、自分自身の感情かもしれないと思えた。
その奇妙な親近感が、余計に零花を戸惑わせた。
あの後ろ姿を、なぜか知っている気がした。会ったことがある気がした。そんなはずはない。零花は生まれてまだ日が浅く、出会ってきた人の数は少ない。それなのに、あの肩の丸まり方が、体の薄れていく速度が、どこかで見た光景に重なる。
夢が、ゆっくりと溶けはじめた。
孤独な星だけが、最後まで光っていた。
零花は目を覚ました。
窓の外はまだ暗かった。夜明けまでもうしばらくある。蒼汰は床に背を預けて眠っていた。天弦の部屋の灯りは、消えていた。老師もようやく休んだのだろう。
零花は膝を抱えて、自分の手のひらを見た。夢の中で消えていった指を思い出していた。書くたびに体が減っていく人物を。どれほどの量を書けば、あれほど消えてしまうのか。あの人は、どこへ行ったのか。
消えることを、怖いとは思わなかったのだろうか。
零花にはわからなかった。自分自身の消滅を想像しようとしても、まだ感情の言葉が追いつかない。ただ、あの後ろ姿が怖くなかったことだけは確かだった。あの人は怖くなかった。きっと。
蒼汰が寝返りを打った。
零花はそちらを見た。眠っている蒼汰の顔は、起きているときよりも幾分か若く見えた。老師に怒りをぶつけた夜の、あの張り詰めた表情が解けて、ただの青年がそこにいた。蒼汰の幼少期の記憶は白紙だと聞いていた。夜空に星座として浮かぶはずのものが、何もない。
ふと、零花は思った。
夢の中の人物が消費していたのは、誰の記憶だったのだろう。
自分自身の、と言った。そう感じた。書き換えのたびに、その人の記憶が使われていた。しかしもし、使われた記憶の一部が、どこかへ流れて行ったとしたら。
零花の息が、静かに止まった。
考えすぎかもしれない。夢は夢に過ぎない。けれど、この世界では夢と記憶の境界が薄い。落下した記憶の欠片から生まれた零花には、そのことが骨の奥でわかった。
窓の外、夜空の端がほんのわずかに白み始めていた。そこに小さな星がひとつ、消えずに残っていた。他の星座とは繋がらない、単独の光。
零花は目を細めた。
あの星を、どこかで見た気がした。