夜が、重かった。
星座の欠けた空は、まるで虫食いにあった古地図のようで、蒼汰は廃観測所を出るたびに思わず足を止めて仰いでしまう。本来そこにあるべきものが消えている——その感覚は、誰かに胸の中心をそっと指で押されるような、静かな不快感だった。
零花は蒼汰の半歩後ろを歩いていた。
音もなく、影のように。しかし蒼汰が立ち止まるたびに同じように足を止め、彼の視線を追って夜空を見上げる。その横顔には感情というものが希薄で、どこかの彫刻が風に運ばれてきたかのような、奇妙な完成と奇妙な未完成が同居していた。
「寒いか」
蒼汰が問うと、零花はしばらく自分の体を確認するように両腕を見下ろした。
「……わからない」
「わからない?」
「体の中で何かが縮んでいる気がする。これが寒さなのか、別の何かなのか、判断できない」
蒼汰は自分の外套を脱いで彼女の肩にかけた。零花は抵抗しなかった。ただ、外套の重みを確かめるように肩を一度すくめ、それからまた無表情に前を向いた。
——感情の地形を持たない人間が、こうして歩いている。
蒼汰はそんな奇妙な詩句を頭の中で転がしながら、石畳の坂を下りていった。
天弦老師の家は、ギルド本部から三つ区画を外れた場所にある。夜図界の都市構造は観測塔を中心とした同心円状に広がっており、塔から遠ざかるほど夜空の解像度が低くなる——つまり、そこに住む人々の記憶は塔の加護を受けにくく、時間とともに薄れやすい。天弦がなぜ中心部を離れてあの場所に住んでいるのか、蒼汰はずっと不思議に思っていた。
「ねえ」
不意に、零花が言葉を発した。
「蒼汰は、何かを探している」
断定の口調だった。蒼汰は歩きながら眉を上げた。
「……なんでそう思う」
「胸のあたりが、ずっと空洞を抱えているみたいな感じがする。あなたの隣を歩いていると、そこだけ風が冷たい」
蒼汰の足が一瞬止まった。
零花の能力については、廃観測所での一晩で大まかに把握していた。他者の感情が彼女に流れ込んでくる——それも言語化されたものではなく、もっと原始的な、感覚の地層のようなものとして。彼女はそれを「追体験」と表現していたが、今のこれはもっと精密な読み取りだった。
「俺の、白紙のことか」
声に出してから、蒼汰は自分がその言葉を他人に告げたことが今まで一度もなかったと気づいた。天弦にも、ギルドの同僚にも。誰にも。
零花はゆっくりと頷いた。
「白紙、という言葉は知っている。けれど、あなたの白紙は文字が消えたのではなくて——最初から何も書かれていないような感じがする。それって、違うことなの?」
「ああ」と蒼汰は答えた。「全然、違う」
地図師は幼少期から記憶の写し方を学ぶ。記憶を地図に定着させる際、その土台となるのは術者自身の最初期の記憶——いわば「原地図」だ。蒼汰にはそれがない。地図師としての技術は持っているのに、自分自身の記憶の源泉だけが空白になっている。それは書き損じた地図ではなく、最初から大陸が存在しない海図だった。
「俺は自分がどこから来たのかを知らない」
声が思ったより静かに出た。
「覚えていないのではなく、記憶が存在しない。地図師がそれでは、笑い話にもならないけど」
零花は歩きながら、じっと自分の手のひらを見た。
「私も」
小さな声だった。
「私も、自分がどこから来たのか知らない。昨夜、星座が落ちてあなたが拾ってくれた——それが私の最初の記憶。だからその前が、全部ない」
「それは零花の場合、そこから生まれたんだから当然じゃないか」
「そうかもしれない」と零花は言った。「でも、当然だとは思えない。胸の中に、何かを失ったような——喪失、という感覚がある。これはあなたから流れ込んできたものなのか、最初から私の中にあるものなのか、わからない」
蒼汰はしばらく黙って歩いた。
石畳に二人分の影が伸びている。街灯の光は古びた橙で、遠くで夜風が何かの看板を揺らしている音がした。
——彼女の喪失感が、俺のものと似ている。
その思いがじわりと浮かんで、蒼汰は頭を振った。零花が他者の感情を吸収することを考えれば、彼女が感じている「喪失」は単純に蒼汰の感情の反射である可能性が高い。それはあくまで読み取りの結果であって、零花自身のものではないかもしれない。
しかし。
「零花、一つ聞いていいか」
「うん」
「俺の隣にいるとき、俺以外の感情は流れ込んでくるか」
零花はしばらく考えた。
「……さっき、あの路地を通ったとき、二階の窓に誰かいた。その人が悲しんでいた。古い歌を思い出しながら、泣いていた。それは感じた」
「じゃあ、今」
「今は」と零花は言いかけて止まった。「今は、あなただけ」
蒼汰は無言でいた。
零花は続けた。
「あなたの空白が、音を立てている。静かなのに、すごく大きな音で。他のものが聞こえないくらい」
それは奇妙な表現だったが、蒼汰には理解できた。空白というのは無音ではない。欠落している部分は、あるべきものが存在しないがゆえに、かえって輪郭が鋭くなる。地図師として他者の記憶を写し続けながら、自分だけの原地図を持たない——その矛盾は、蒼汰の中で常に低く鳴り続けている通奏低音だった。
「共鳴している、みたい」
零花が言った。
「あなたの空白と、私の空白が」
蒼汰はその言葉を胸の中で反芻した。共鳴。二つの楽器が同じ音で振動するように、彼女の虚ろと自分の虚ろが呼応している——それが感情の伝染なのか、それとも別の何かなのか、今の蒼汰には判断できない。
ただ、不思議と不快ではなかった。
長い間一人で抱えてきた空洞を、誰かが隣で同じように抱えている。それだけで、夜の重さが少しだけ変わった気がした。
やがて天弦老師の家の灯りが見えてきた。古い石造りの建物で、窓から零れる光は黄ばんで温かく、冬の夜にそぐわない柔らかさを持っていた。
蒼汰が門を叩こうとして、手を上げたとき。
「蒼汰」
零花がまた口を開いた。
「さっきから、建物の中に誰かいる。その人、とても重い感情を持っている。悲しみというより——」
彼女は言葉を探すように眉を寄せた。
「罪悪感、かな。ずっと長い間、何かを黙っていた人の、重さ」
蒼汰の手が止まった。
天弦老師の家の中に、誰かいる。師匠以外の誰かが——あるいは師匠自身が——夜の静けさの中でその感情を湛えて、ここで待っている。
扉の向こうから、低い話し声が漏れ聞こえた気がした。
蒼汰はゆっくりと息を吸い、扉を叩いた。三度。
沈黙が、長かった。