扉を叩いた指先が、まだかすかに痺れていた。

 老師の家で交わした言葉の数々が、蒼汰の胸の中でじわりと沈んでいく。天弦は零花の存在を見て、一瞬だけ目を細めた。それが驚きだったのか、あるいは別の何かだったのか、蒼汰にはまだ判じかねていた。老師は結局、零花を「珍しい来客だ」と言って静かに茶を出し、異変についての話は当たり障りのない問答で終わった。零花が感じ取った「強い罪悪感」については、蒼汰は口にできなかった。それを問い質すには、まだ何かが足りなかった。

 翌朝、ギルドに戻った蒼汰は、地図室の端の作業台に座り、羊皮紙を広げた。夜空の模写図だ。消滅が確認されている星座の位置を点線で丸く囲み、その周囲の現存する星座を細い線で繋ぎ合わせる。作業の途中、同僚のコールが隣の椅子を引いた。

 コールは蒼汰より三つ年上の見習いで、軽口を叩くことに人生の半分を費やしているような男だった。地図師としての腕はそれなりだが、街の噂を集める能力だけは一人前以上だと自他ともに認めている。

「なんか難しい顔してるな、蒼汰」

「そうか」

「消えた星座の地図でも作ってんの? 意味ないじゃんそれ、もう存在しないものを描いても」

 蒼汰は羊皮紙から目を上げなかった。「存在したという記録は残る」

「……まあな」コールは少し黙り、それから声を低めた。「ちょっと変な話、聞くか」

 その声のトーンに、蒼汰は思わず手を止めた。

「変な話?」

「闇市の話だよ。最近また動いてるらしい」

 地図師ギルドにいれば、闇市の存在は噂程度に耳に入ってくる。記憶を正規のルートを通さずに売買する場所、と言われていた。ギルドの管轄外で記憶の欠片を取引することは法律上禁じられているが、そのことを知っていても、貧困や追い詰められた事情を抱えた者たちが記憶を手放すことを選んでいる。蒼汰はそれを、自分とは遠い世界の話として処理していた。

 少なくとも、今日の朝までは。

「それが消えた星座と関係あるのか」

 コールは声をさらに潜め、周囲を見回した。「それがさ、最近の闇市に並んでる記憶が、通常じゃないらしいんだよ。個人の記憶じゃなくて、もっと大きなもの。集合記憶っていうか……街単位、時代単位で消えた記憶が出回ってるって」

 蒼汰の背筋に、細い針のようなものが走った。

「それは本当の話か」

「俺に確かめる手段はないよ。でも信頼できるやつから聞いた。夜空から落ちてきてるって言ってる人間もいる。消滅した星座の記憶が、欠片になって地上に降りてきて、それを誰かが集めてる、って」

 零花のことが頭をよぎった。あの子は「落下した記憶の欠片から生まれた」と言っていた。では零花と同様に降ってきた欠片たちが、今、闇市で売買されているのだとしたら。

「誰が集めてるんだ」

「わからない。でも元締めがいるらしい。若い男だって話だけど」

 コールはそれ以上は知らないと言い、作業台から離れていった。蒼汰はしばらく点線の円を見つめていた。紙の上に描かれた空白の輪が、まるで問いのように見えた。

 ――その日の夕方、蒼汰は天弦の執務室の扉を叩いた。

 老師は窓際の椅子に座り、古い文書を読んでいた。部屋には常に星図の匂いがした。インクと古い羊皮紙と、かすかな煙の残り香。

「聞きたいことがあります」

 蒼汰が言うと、天弦は文書から目を上げた。皺の多い顔に、穏やかな表情が浮かんでいる。しかしその奥に何があるのかは、蒼汰にはいつもよく見えない。

「なんじゃ」

「記憶の闇市が、また動いているという話を聞きました。消滅した星座の記憶が、欠片になって流通しているとも」

 老師の手が、文書の上で静かに止まった。

「誰からそんな話を」

「ギルドの中で囁かれています。そして老師はご存知だと思う。消えた星座のことを一番早く知っていた人間が、この件を知らないはずがない」

 沈黙が部屋に落ちた。窓の外では、夕暮れが地平を紫に染め始めていた。やがて夜が来れば、星座が浮かぶ。あるいは今夜も、また一つ消えるかもしれない。

「関わるな」

 天弦の声は静かだったが、そこには有無を言わせない重さがあった。

「なぜですか」

「危険だからじゃ。闇市というのはな、蒼汰。記憶を商品として扱う場所だ。そこに踏み込めば、お前自身の記憶も値をつけられることになる。お前の白紙の記憶が、あの場所に出回ったらどうなると思う」

 蒼汰はそれを反論として受け取ることができなかった。理屈は正しい。しかし老師の目が、その言葉と少しだけずれていた。

 言葉は静かだった。しかし目が、静かではなかった。

 長年この老師のそばで学んできた蒼汰には、その違いが分かった。老師が何かを隠すとき、言葉は完璧に凪いでいる。ところが今夜の目は、水面を叩いたように波紋を帯びていた。ほんの一瞬、それはすぐに消えた。しかし確かに蒼汰はそれを見た。

 「闇市」という言葉を聞いた瞬間の、微かな動揺を。

「わかりました」

 蒼汰は頭を下げて、部屋を出た。廊下に出てから、彼は一度だけ振り返った。閉じた扉の向こうで、老師が再び文書に目を落としているだろうことは想像できた。しかしその手がもう一度止まっているかどうかは、見えない。

 廊下の窓から、夜が忍び寄ってくるのが見えた。

 蒼汰は宿舎に戻り、零花がいる小部屋の前で足を止めた。扉の隙間から灯りが漏れている。中で何かしているのだろう。一度手を上げかけて、しかし下ろした。今夜この話をすれば、零花も関わることになる。欠片から生まれたあの子が、欠片の売買の話を聞いたとき、何を感じるのか、まだ蒼汰には想像がつかなかった。

 自分の部屋に入り、窓を開けた。夜気が流れ込んでくる。

 空を仰いだ。今夜の星座は、いつもより疎らに見えた。それが気のせいなのか、それとも本当にまた一つ欠けたのかは、専門家でなければ判別できない。しかし蒼汰には、夜空がかつてより少し軽くなったような気がした。重さが、落ちてきている。

 「欠片は地上に降りてくる」

 コールの言葉が、耳の中で繰り返された。降りてきた欠片は、どこへ行くのか。誰が拾い、誰が売り、誰が買うのか。そしてその先に、消えていく星座の理由が、あるのか。

 蒼汰は羊皮紙を取り出し、新しい地図を描き始めた。今度は星座ではなく、街の地図だ。噂に上っていた闇市の場所として挙げられていた区画を、記憶の中から呼び起こして書き込む。確かなことは何もない。しかしここから始めるしかなかった。

 インクが紙に染み込む音が、静かな夜に溶けていった。

 遠くで、霞鳥が一声鳴いた。

 その声は問いのようで、答えのようで、どちらでもないようだった。ただ夜の中に、ひとつの羽音が残った。それが消えると、また静寂が戻ってきた。しかし今夜の静寂は、どこか張り詰めていた。何かが動き始めていた。それは蒼汰の指先にも伝わってきていた。地図を描く手が、わずかに震えていた。

朽ちない星座と、忘れ屋の地図師

6

闇市の噂

綾瀬 燈子

2026-05-18

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第6話 闇市の噂 - 朽ちない星座と、忘れ屋の地図師 | 福神漬出版