翌朝、蒼汰は天弦に呼ばれた。

 使いを寄越したのは霞鳥だった。夜明けの光を浴びた窓辺に忽然と現れ、「師匠が待っている」とだけ告げると、返事も聞かずに飛び去った。その羽根が空に溶けていくさまを見送りながら、蒼汰は昨夜の零花の顔を思い出していた。縹に「いずれ消える」と告げられたとき、彼女の表情にはじめて恐怖というものが宿った。他人の感情を受け取りながら、自分の感情がどこにあるのかわからずにいた零花が、あの瞬間たしかに怯えた。その事実が、どういうわけか蒼汰の胸の奥に細い棘のように刺さったままでいる。

 天弦の部屋は観測塔の最上階から三層だけ降りた場所にある。ギルドの者たちの間では「書架の間」と呼ばれており、壁という壁が天井まで古い地図と書物で埋め尽くされていた。地図はどれも経年で色褪せ、星座の線が薄く滲んでいる。それでも捨てられることなく保存されているのは、一枚一枚が本物の記憶から写し取られた、取り替えのきかない原本だからだ。

 蒼汰が扉を叩くと、老師の穏やかな声が応じた。

「入りなさい」

 部屋の中央には低い卓が一つ。天弦はその前に端坐し、湯気を立てる茶碗を両手で包んでいた。向かいにも茶碗が用意されており、蒼汰が座ると老師は静かに口を開いた。

「昨日、縹と会ったそうだね」

 蒼汰は驚いて顔を上げた。天弦はただ茶を一口すすり、柔らかく目を細めるだけで、責めるような気配は微塵もない。それがかえって蒼汰を緊張させた。

「はい。旧市街で、偶然」

「偶然というものは、夜図界ではなかなか珍しい」

 老師はそう言って茶碗を卓に置いた。その手の甲には幾本もの細い傷跡があった。地図師が長年羽根ペンを握り続ければ必ずできる傷だ、と先輩たちから聞いたことがある。

「今日は、お前に地図師の歴史を話しておきたいと思っていた。縹のことがあったのなら、なおさらだ」

 蒼汰は姿勢を正し、茶碗に手を伸ばした。温かい。

「地図師の掟はいくつかある」と天弦は言った。「だがその中でもっとも古く、もっとも重いものが一つある。記憶を保存することは許される。しかし記憶を使用すること、あるいは改変することは、いかなる理由があっても許されない。これを地図師の第一禁という」

「……使用、ですか」

「そうだ。地図に写された記憶は、原則として当人か、その同意を得た者だけが閲覧できる。しかし写し取られた記憶は生きている。言ってみれば、封じ込めた光のようなものだ。それを意図的に解放し、他者に見せたり、操作したり、あるいは星座の形を書き換えたりすることが禁じられている」

 蒼汰は頷きながら、縹の言葉を思い出した。記憶を買い集め、闇市で売る。縹がやっていることはまさにその禁の端を踏み荒らすような行為ではないか。しかしそれを口にする前に、天弦が続けた。

「この掟が生まれたのは、およそ三百年前のことだ」

 老師はゆっくりと立ち上がり、壁際の棚に向かった。一番上の段から、布で丁寧に包まれた薄い書物を取り出す。布をほどくと、表紙には何も書かれていなかった。

「三百年前、夜図界にはまだ掟が整っていなかった。地図師たちは記憶を保存することに長けていたが、それを扱う倫理については各々が判断していた。そんな時代に、一人の地図師があることを試みた」

 天弦は書物を卓の上に広げた。古い文字が並び、蒼汰にはすぐには読めないが、挿絵として描かれた夜空の図が目に飛び込んできた。星座が、異様に整然としている。まるで誰かが設計したように。

「その地図師は、夜空そのものを書き換えようとした。人々の記憶から星座を消し、新しい星座を描き直すことで、世界の歴史ごと塗り替えようとしたのだ」

 蒼汰の呼吸が浅くなった。

「……できるんですか、そんなことが」

「できなかった。だから伝説として残っている」天弦は静かに答えた。「その地図師は志半ばで倒れた。理由は諸説ある。力が及ばなかった、という説もあれば、誰かに止められた、という説もある。あるいは、自ら手を止めた、という話もある」

「なぜ、書き換えようとしたんですか」

 老師は少し黙った。その沈黙は一瞬のことだったが、蒼汰には長く感じられた。

「愛するものを失いたくなかったのだろう、と言われている。記憶が消えることへの恐怖が、その者を追い詰めた。夜空の星座が消えるということは、誰かの記憶が永遠に失われるということだ。そのことに耐えられなかった」

 蒼汰は書物の挿絵に視線を落とした。整然とした星座の図。それはどこか、人の手で設計された建物の見取り図に似ていた。

「その地図師の名は、今もギルドの正式な記録には残っていない」と天弦は続けた。「名を記すことは、その行為を歴史に刻むことになる。だからあえて消した。わかるか、蒼汰。記録しないという選択もまた、地図師の仕事のうちだ」

「……はい」

 蒼汰は頷いたが、胸の中に何かが引っかかっていた。記録しない、という言葉が、自分の白紙の記憶と重なったからかもしれない。あるいは、天弦が今この話を自分に語ることの意味が、まだうまく摑めなかったからかもしれない。

 老師は書物を閉じ、布で包み直しながら言った。

「縹のことは、今すぐ咎めるつもりはない。あの者にはあの者の理由がある。しかし、お前が関わるのなら、掟の重さを知った上で動きなさい。知らずに踏み込むのと、知って踏み込むのとでは、傷の深さが違う」

「零花が、縹に何かされるということはありますか」

 蒼汰が問うと、天弦はしばらく蒼汰の顔を見つめた。その眼差しは温かく、それでいてどこか遠くを見ているようだった。

「零花は、欠片から生まれた。それがどういう意味を持つか、まだ誰にもわかっていない。わからないものに対して、人は恐れるか、利用しようとするか、どちらかだ」

 答えになっていない、と蒼汰は思った。しかし老師を問い詰める言葉は出てこなかった。

 帰り際、蒼汰は扉のそばで足を止め、振り返った。

「老師。禁を犯したその地図師は、結局、何を守ろうとしたんですか」

 天弦は茶碗を手に取ったまま、窓の外の空を見ていた。昼間の空には星座は見えない。見えないだけで、そこにあるのだと蒼汰たちは学ぶ。

「さあ」と老師は言った。「本人にしかわからない」

 その声は穏やかで、柔らかで、それだけに蒼汰には何も読み取れなかった。

 廊下に出て、扉が閉まる音を聞いたとき、蒼汰はふと気づいた。天弦は今日、一度も「その地図師は愚かだった」とは言わなかった。禁を犯した者として断罪する言葉が、最後まで老師の口から出なかった。

 観測塔の窓から差し込む光の中を歩きながら、蒼汰はその小さな事実を、まだ地図に写せない自分の白紙の内側へ、そっとしまい込んだ。

朽ちない星座と、忘れ屋の地図師

8

地図師の掟

綾瀬 燈子

2026-05-20

前の話
第8話 地図師の掟 - 朽ちない星座と、忘れ屋の地図師 | 福神漬出版