旧市街の路地は、夜になるとまるで別の生き物のように息をする。

 昼間は干された洗濯物と商人の怒声で賑わう石畳が、観測塔の灯が落ちる頃には静まり返り、足音ひとつで空気が震える。その静けさは、しかし、完全な沈黙とは違う。よく耳を澄ませれば、石の隙間から何かが滲み出してくるような、微かな——記憶の気配、とでも呼ぶべき息遣いが聞こえた。

 蒼汰はフードを深く被り直し、手の中の地図を確かめた。

 自分で書き込んだ文字は、墨が乾く前から少しずつ滲んでいた。旧市街の路地は建物が密集しすぎて、観測塔から届く星座の光が弱い。記憶の照度が低い場所では、地図師の墨も定着しにくい。地図師見習いの手製の地図など、この場所では頼りない紙切れ同然だ。それでも蒼汰は折り畳んで胸元に仕舞い、自分の足の感覚を信じて歩き続けた。

 隣を歩く零花が、ふと足を止めた。

「何かいる」

 声は低く、感情の読めない声だった。零花はいつもそうだ——感情を言葉にするのが上手くない。他者の感情を肌で受け取ることは出来ても、それが自分の言葉を通ると、どこか輪郭の甘いものになってしまう。

 だが今夜は違った。その「何かいる」という言葉の端に、明確な警戒の色があった。

 蒼汰が顔を上げると、路地の突き当たりに人影があった。

 ひとりではない。三、四人の人間が取り囲むように立っており、その中心に、ひとりの男がいた。

 男は、薄い。

 それが蒼汰の最初の印象だった。背は高いが体が細く、まとう黒い外套がひらひらと揺れていて、光が当たっても影をほとんど作らないように見えた。年齢は判然としない。蒼汰よりは年上だろうが、老いた印象はない——まるで年を取ることを拒否しているような、乾いた若さを持つ顔だった。

 その手には、小さな硝子瓶が握られていた。

 中には、光が宿っていた。

 蒼汰は息を詰めた。星座が落下したとき、その欠片が地上に降り注ぐことがある。欠片はたいていすぐに消えるが、ごく稀に固形として残る。それが「記憶の欠片」であり、闇市で高値で取引されている——コールから聞いた話が、現実として目の前に像を結んでいた。

「おや」

 男が顔を向けた。視線が路地の端まで伸びてきて、蒼汰と零花の上で止まる。

「迷い込んだ子鹿が二頭」

 部下たちが動こうとするのを、男は片手で制した。ゆっくりとした歩調で近づいてくる。街灯の届かない路地の中で、男の目だけが妙に明るく見えた——いや、明るいのではない。光を溜め込んでいるのだ。買い集めた記憶の欠片を長年扱い続けた者だけが持つ、独特の虹彩の色だった。

「地図師の見習いが、こんな夜更けに旧市街をうろつくとは」

 男は蒼汰の外套に刻まれた小さな紋章を一瞥して言った。ギルドの印だ。隠したつもりだったが、見破られた。

「あなたが、縹」

 蒼汰は咄嗟に言った。尋ねたのではなく、確認だった。縹——記憶商人の若き元締め。コールの話には名前まで出てきた。

 男は、少しだけ眉を動かした。

「ギルドで私の名が出回っているとは、天弦の翁も耳が良くなったらしい」

「違う。ギルドは知らない。俺が独自に調べた」

「ほう」

 縹の視線が、蒼汰から外れて——零花に止まった。

 そこで、何かが変わった。

 縹の目が細くなる。先ほどまでの余裕ある品定めとは明らかに異質な、何かを見定めるような眼差しだった。零花は縹の視線を受けても表情を変えなかったが、蒼汰には、零花の指先が微かに震えたように見えた。

「……なるほど」

 縹がゆっくりと言った。

「落下した欠片から生まれた子だな」

 零花が息を吸う音が聞こえた。

 蒼汰は反射的に零花の前に出た。「何のことだ」という言葉が喉まで出てきたが、縹は蒼汰の反応など既に計算済みだというように、目を動かさなかった。

「隠さなくていい、地図師の見習い。私は欠片を扱う商売をしている。欠片の気配は百歩先でも判る」

 縹は硝子瓶を外套の内側に仕舞いながら続けた。

「その子は珍しい。完全に定着して形を保っている。普通、欠片が人の形を取っても、数日で崩れる。だが——」

 縹の言葉が、路地の石壁に吸い込まれるように低くなった。

「いずれ消える。欠片は欠片のまま完結できない」

 蒼汰の胸に、冷たいものが流れ込んだ。

「何が根拠だ」

「根拠は、これまで私が見てきた全てだ」

 縹の声に感情はなかった。侮蔑でも憐れみでもない——ただの、観察の結果を述べる声だった。それが余計に、言葉の重さを確かなものにした。

「欠片は誰かの記憶の一部だ。それ自体では完結していない。どれだけ形を保っても、根を持たない植物と同じだ。水を吸えないまま、ただ立っているだけ。いつか必ず……」

「やめろ」

 蒼汰の声は、自分でも思わぬほど強く出た。

 縹が黙った。路地に静寂が戻る。

 零花は蒼汰の背後で、何も言わなかった。声も出さなかった。ただ、蒼汰の外套の端を、ほんの少し、指でつまんでいた。

 縹はしばらく蒼汰を見ていた。品定めではなく、何かを確かめるように。

「あんたは、なぜ星座が消えているか知っているか」

 蒼汰は話題を変えた。縹の言葉を引き続けることに、今夜はもう耐えられなかった。

「知っている」

 縹はあっさりと答えた。

「しかし、教える理由がない」

「なぜ星座が消えていくかを調べている。欠片が闇市で流れているのも、それと関係があると思っている。俺は地図師として、夜空の地図を正確に書き直したい——」

「感心な志だ」

 縹は遮った。

「だが地図師の地図は、誰かが見るためにある。今のギルドに、消えゆく星座を正確に記録する覚悟があるか? 翁は何十年もそれをしなかった。あんたが一枚の地図を描いたところで、何が変わる」

 その言葉は、刃ではなく問いだった。蒼汰には答えられなかった。

 縹は外套を翻した。部下たちが後に続く。

「欠片を売りに来たいなら、来い。買い取る。ただし——」

 立ち去り際に、縹は一度だけ振り返った。その目が零花に向いた。

「その子は売るな。欠片は欠片のまま、価値が決まる前に消える。取引にならない」

 路地に足音が消えていく。

 遠ざかる背中を見送りながら、蒼汰は拳を握り直した。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも判然としない感情が胸の中で渦を巻いていた。

 零花が、小声で言った。

「ねえ、蒼汰」

「ん」

「あの人が言ったこと——」

 言いかけて、零花は止まった。そのまま数秒の間、黙っていた。石畳の隙間から湿った風が吹いて、零花の髪を揺らした。

「私、怖い、って思ったのかな。今」

 蒼汰は零花を見た。零花は自分の胸元を、片手で押さえていた。自分の内側で起きていることを確かめるように。

「それが怖いということだと思う」

 蒼汰は言った。その声が、少し掠れた。

 零花は小さく頷いた。頷きながら、何かを懸命に整理しているように見えた。自分の中に芽生えた感情の名前を、まだ知らない子供のように。

 蒼汰は夜空を見上げた。今夜も、星座の数が昨夜より少ない気がした。消えた星座の場所には、ただの闇がある。記憶が抜け落ちた跡だ。

 縹の言葉が、耳の奥でまだ鳴っていた。

 ——欠片は欠片のまま完結できない。

 その言葉が嘘であってほしいと、蒼汰は思った。思いながら、しかし——なぜ自分がそう思いたいのかを、まだ上手く言葉にできなかった。

 胸の中の白紙が、今夜は妙に重く感じた。

朽ちない星座と、忘れ屋の地図師

7

縹との邂逅

綾瀬 燈子

2026-05-19

前の話
第7話 縹との邂逅 - 朽ちない星座と、忘れ屋の地図師 | 福神漬出版