世の中には、怒りすぎて笑えてくる瞬間というものがある。
榊原灯子がそれを理解したのは、三十二年の人生で初めてのことだった。
午後八時四十分。都心のビルの十七階、窓の外には東京の夜景が広がっている。オフィスの蛍光灯だけがやけに白く、灯子の目を刺した。机の上には未決書類の山。壁際のコーヒーメーカーは三日前から故障したまま放置されている。灯子の向かいには、所長の黒澤が座っていた。五十代の小太りの男で、いつも三つボタンのスーツの中ボタンだけを留めている。その習慣の理由を、灯子は七年間ついに聞けずじまいだった。
「つまり、解雇だと」
灯子は静かに言った。感情を殺した声だった。弁護士として法廷に立ってきた七年間、その声は武器だった。
「解雇、という言葉は穏当ではないね」黒澤は手を組んで、少し天井を見た。「契約の……見直し、というか」
「見直し」
「そう。事務所の方針として、今後は訴訟案件より顧問契約の拡充を進めたい。灯子くんのやり方は、正直、クライアントの企業側にとって刺激が強すぎる。先月の田端商事の件もそうだが」
「田端商事の件は、向こうが二十三人の労働者に違法な残業をさせていた案件です。私はただ法律通りに動いた」
「それが、だ」黒澤は顔の前で手を振った。「田端商事は我々の大口顧問先でもある。両者の利益を調整しながら——」
「調整の意味を辞書で引き直してください」
灯子は立ち上がった。椅子が少しだけ後ろに滑った。
「二十三人の労働者のうち四人は過労で倒れていました。そのうちの一人は二十二歳でした。調整するものが何もある。田端商事の顧問契約を守るために、二十二歳の子が倒れたことを見なかったことにしろと、あなたは私に言っていますか」
黒澤はため息をついた。疲れたような、それでいてどこか決意した表情だった。
「来月末をもって、契約終了とする。手続きは追って——」
灯子はもう聞いていなかった。
怒りというものは、一定の温度を超えると奇妙な透明感を持つ。燃えるのではなく、すうっと冷えていく。灯子の胸の中でそれが起きていた。七年間。七年間、ここで働いてきた。長時間労働も、クライアントの無理難題も、同僚の嫉妬も、全部飲み込んできた。それでも、法律の筋だけは曲げなかった。一度も。
それが、終わりだった。
エレベーターの中で灯子は少しだけ笑った。可笑しくて笑ったのではなく、笑わないと何かが崩れそうだったから笑ったのだ。バッグの中には、未提出のまま終わる書類が三センチほど入っていた。
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雨が降っていた。
ビルを出ると、傘を持っていないことに気づいた。コンビニで買おうと思いながら、足が止まらなかった。どこに向かっているのかも、なんとなくわかっていなかった。七年間、終電で帰るために選んでいた道を、身体が勝手に歩いていた。
細い路地に入ったのは、大通りの雑踏が煩わしかったからだ。雨の音と、遠くの車の音だけになった。灯子の靴が水たまりを踏んだ。革靴が濡れた。どうでもいいと思った。
交差点に差しかかったとき、信号は青だった。
そのあとのことは、よく覚えていない。
光。それから、衝撃。
それから、何も。
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耳に最初に届いたのは、水の音だった。
川だ、と思った。雨音とは違う、ゆったりとした流れの音。灯子は目を開けた。
空が、変だった。
夜なのか昼なのか判然としない。青とも灰ともつかない色合いで、雲が低く垂れていた。雲の動きが妙にゆっくりで、まるで映像を一割遅くしたような感覚があった。風が吹いているのに、雨は降っていなかった。雨の匂いだけがした。
灯子は自分の手を見た。手は、あった。濡れた革靴も、三センチの書類が入ったバッグも、あった。身体に痛みはなかった。むしろ、これまでの疲労がすっぱりと消えたような妙な軽さがあった。
立ち上がると、足元が石畳だった。東京の路地ではない。もっと古い、角の丸まった石が並んでいる。石の間に苔が生えていた。両脇は古い木造の家が続いていた。昭和のどこかから切り取ってきたような外観で、軒先には錆びた風鈴が一つぶら下がっていた。風鈴は鳴っていなかった。
路地の突き当たりに、川が見えた。
黒い川だった。
水面は静かで、光を反射しない。深さがわからない。対岸がうっすら見えるが、向こう岸が何なのかはわからなかった。川の匂いは、春と秋が混ざったような、奇妙な懐かしさだった。
三途川、という言葉が、灯子の頭に浮かんだ。
弁護士として、灯子は根拠のないことを口にしない人間だ。だが今この瞬間、その言葉は確信に近かった。
「死んだ」
声に出してみた。
しかし、どうも確信しきれなかった。死んでいるにしては、バッグの中の書類の重さがリアルすぎた。革靴の濡れた感触がリアルすぎた。何より、胸の中の怒りが、まだくすぶっていた。
「死んでいない、かもしれない」
言い直してみた。それも確信しきれなかった。
灯子は大きく一度息を吸った。弁護士として培った習慣だ。わからないことはわからないと認め、今わかることを整理する。
わかること。ここは見知らぬ場所だ。川がある。昭和風の路地だ。身体は動く。痛みはない。
わからないこと。ここがどこか。自分が生きているかどうか。
灯子は路地を歩き始めた。川に向かって歩くのはなんとなく気が引けたので、川を背にした。石畳の路地を奥に向かうと、木造の家々が続いた。表札はどこにもかかっていなかった。窓に光はなかった。住んでいるのかいないのか、わからない家が並んでいた。
そのとき、路地の角を曲がったところで、灯子は立ち止まった。
一軒だけ、明かりがついていた。
他の家と同じような木造平屋で、庇の下に古い石灯籠が二つあった。玄関の格子戸の上に、板が一枚かかっていた。墨で書かれた文字は、雨と年月でいくらか滲んでいたが、読めた。
──なんでも相談、承ります。
灯子はしばらくその看板を見ていた。
弁護士として、怪しい看板は山ほど見てきた。詐欺まがいの相談所の話も、実務でいやというほど扱った。「なんでも相談」を謳う場所の七割は何もできない。残りの三割は何かできるふりをするだけだ。
だが、今の灯子には、他に選択肢がなかった。
それに。
灯子は格子戸に手をかけた。冷たかった。木の冷たさだった。
それに、弁護士として、困っている人間が相談所を見つけたとき、入らない理由はない。
格子戸を、静かに引いた。
からん、と小さな鈴の音がした。
中から、ぬくもりのある橙色の光が漏れた。畳と古い木の匂いがした。それから、どこからともなく、ふわりとお茶の香りがした。
そして。
「いらっしゃいませ、でございますよ」
縁側の奥から、皺の深い老女の声がした。丁寧で、柔らかく、しかし灯子が入ってくることを最初から知っていたような声だった。
「ずいぶんお困りのご様子。まずはお座りになって、一杯どうぞ」
灯子は土間に立ったまま、目を細めた。
奥には、小さな座卓と、そこに置かれた湯呑みが一つ。湯気が立っていた。まるで最初からそこに用意されていたかのように。
灯子の胸の怒りが、少しだけ、形を変えた。
怒りではなく——好奇心に。
格子戸の向こう、石畳の路地の先、黒い川のほとりで、風鈴が一度だけ鳴った。