引き戸を開けた瞬間、灯子を出迎えたのは笑い声だった。

 くぐもった、しかし腹の底から絞り出すような哄笑。三途川の川縁にそぐわないその音は、薄暗い土間の奥から聞こえてくる。何かが焼けるような臭気を予想していた灯子の鼻を、意外にも線香と畳の匂いが静かに撫でた。昭和の祖母の家に迷い込んだかのような、しみついた生活の気配。

 灯子は濡れた靴のまま板間へ上がりかけ、思い直して靴を脱いだ。死にかけているのかもしれないが、靴は脱ぐ。そういう人間だった。

「――っくく、あははは、あーそこでそうなるかあ」

 声のする方へ進むと、六畳ほどの和室があった。

 書類の山だった。

 いや、正確には書類の山が幾つもそびえ立ち、その峰と峰の間の谷間に、男が一人寝そべっていた。黒い狩衣の裾をだらしなく捲り上げ、足をばたつかせながら、薄っぺらいマンガ本を両手で掲げている。頭には金の冠のようなものをかぶっているが、完全に斜めにずり落ちていた。

 灯子は三秒、その光景を見つめた。

 弁護士として十年、理不尽な現場は数え切れないほど踏んできた。しかし目の前の光景は、理不尽というより、どこか次元が違う。

「あの」

「ちょっと待って」男が片手を上げた。「今いいとこ」

「……はい」

 灯子は待った。

 三十秒待った。

 男はまだ笑っていた。

「あのっ」

「だから待ってって。ここ、ここ見て。このコマ。ほら、この人の顔」男がマンガ本を天井へ向けて掲げる。「笑えるでしょ」

「笑えません」

「えっ、なんで。ここ絶対笑うとこでしょ」

「私は今、自分が生きているのか死んでいるのかもわからない状況でして」

 男がようやくのそりと体を起こした。冠が更に傾く。間近で見ると、顔の造作は整っているのに、その整った顔に貼り付いた表情が妙にとぼけていて、辻褄が合わない。年齢不詳、というより年齢という概念が馴染まないような顔をしていた。

「ああ、お客さんか」男は灯子の頭のてっぺんからつま先まで眺め、にかっと笑った。「生きてる人間の顔してる。ちょっと半分くらい死にかけてるけど」

「半分」

「うん。半々。コインで言ったら側面で立ってる感じ」

 灯子の眉間に皺が寄った。

「あなたは、誰ですか」

 男は冠を指先でぴんと弾き、それからさも当然のように答えた。

「閻魔。閻魔丸。ここの最高責任者。丸って呼んでいいよ」

 沈黙が落ちた。

 灯子の頭の中で、幼少期からの「閻魔様」のイメージが猛スピードで展開される。恐ろしい形相、巨大な体、罪人の舌を抜く鉤、冥府の裁判官。少なくとも、マンガを読みながらゲラゲラ笑って床に転がっているイメージは、一度も登場しなかった。

「……嘘ですよね」

「なんで」

「だって」

「だってって言われても、本物なんだけど」閻魔丸は立ち上がり、書類の峰を軽々と乗り越えてくる。背は高い。ただし冠がまだ斜めのままだ。「あなたは誰。名前は」

「榊原灯子。弁護士、でした」

「でした?」

「今は無職というか、半死半生というか」灯子は自分で言いながら、状況の荒唐無稽さに眩暈がした。「雨の中を歩いていたら事故に遭って、気づいたらここに来ていました。この看板の相談所に」

「ああ」閻魔丸は腕を組み、なるほどなるほどと深刻そうに頷く。その後でにやりと笑った。「じゃあちょうどよかった」

「何がですか」

「所長が欲しかったんだよね、ここの」

 灯子の目が細くなった。

「……今、何とおっしゃいましたか」

「所長。地上出張所の所長。ずっと空席でさ、俺が兼任してたんだけど、正直面倒で」閻魔丸はあっけらかんとした顔で書類の山のひとつをどんと叩く。「これ全部、その辺の地上の人間たちの縁にまつわる案件。縁結び相談所なんだけど、うち。もう滞ってる滞ってる。弁護士なら書類仕事できるでしょ。任命します。以上」

「以上、じゃないです」

 灯子の声が一段低くなった。

 弁護士として、交渉の場で相手が一方的に話を打ち切ろうとした瞬間に使う声。依頼人が理不尽な条件を飲まされそうになった時に、机を挟んで放つ声。灯子本人は気づいていないが、この声が出ると、相手の体温がわずかに下がる。

「任命するとおっしゃいましたが、その根拠は何ですか」

「根拠?」

「任命には合意が必要です。私はまだ何の同意もしていない。そもそも私は生きているのか死んでいるのかも不明な状態で、その私にどんな法的根拠で職務を課すおつもりですか。冥界法があるなら見せてください。現世法との適用関係も教えていただきたい。私は弁護士ですよ」

 閻魔丸が瞬きした。

 その目が、じわじわと輝き始める。まずいことを言ったかもしれない、と灯子は直感した。しかしどうまずいのかがわからない。

「面白い」

「面白くないです」

「根拠を問い詰めてきた人間、初めてだ」閻魔丸は無邪気な顔でそう言い、書類の山の前に腰を下ろした。「ほかの人はみんな、俺が閻魔だって言ったらそこで止まるんだよね。びびって固まるか、気絶するか。でもあなた、逆に前のめりになった」

「当然です。権力者だからといって根拠のない命令に従う義務はない」

「だよね」

「だよね、じゃないです。……だよね、って何ですか」

「いや、そう思う。俺も実はそう思ってたから、一方的な任命はよくなかったな。反省した」

 灯子は息を呑んだ。

 謝られるとは思っていなかった。しかも妙に素直な謝り方だった。こういう相手は逆に対処が難しい。法廷でも、理詰めで詰められるより感情論でぐにゃぐにゃ動く相手の方が疲弊するのは、経験上知っていた。

「じゃあ、交渉しましょう」閻魔丸は人差し指を立てた。「俺はあなたに所長をやってほしい。あなたは今、行くとこがない。半死半生だから現世にも戻り切れてないし、かといって完全に死んでもいない。ここにいれば、その中間で存在できる」

「……」

「もし嫌なら、今すぐ川に放り込んで完全に成仏させることもできるよ。でもそれ、もったいない気がする。あなたみたいな人間、あの川の流れに溶かしてしまうのは」

 灯子は黙った。

 川の映像が脳裏に蘇った。渡ったら戻れないと、どこかで知っていた。ここに来るまでのこと、事務所で告げられた解雇、雨、クラクション、それから急に何もかもが光に溶けた感覚。まだ、整理しきれていない。

「一つだけ聞かせてください」灯子はゆっくり口を開いた。「縁結び、とおっしゃいました。ここでやっている仕事は」

「そう。死んだ人間が、生きてた頃に結べなかった縁を後悔してて。それを解きほぐしたり、繋いだりする。ときどき生きてる人間の縁もこじれて持ち込まれてくる。まあ、なんでも相談ってそういうこと」

「私に、それができると思う根拠は」

「弁護士は人の話を聞いて、絡まった糸を解く仕事でしょ」閻魔丸はさらりと言った。「縁結びも同じだよ。糸の種類が違うだけで」

 灯子はまた黙った。

 こういう言い方をする人間は信用に値しないことも、信用に値することも、どちらもある。この男がどちらかは、まだわからない。ただ、嘘をついている顔ではなかった。そしてこの書類の山は本物で、積まれた紙の一枚一枚に、誰かの事情が書いてあるのだということは、読まずともわかった。

「……条件があります」

 閻魔丸の顔が、ぱっと明るくなった。

「どんな」

「勝手に任命しない。勝手に決めない。何かあれば必ず相談する。仕事の内容と権限の範囲を文書で明示する。以上です」

「文書」閻魔丸が少し頭を傾けた。「俺、書類嫌いなんだよね」

「書いてもらう気はありません。私が作ります」

 閻魔丸はそれを聞いて、また腹の底から笑い出した。さっきマンガを読んでいた時と同じ笑い方で、しかし今度は灯子も少しだけ、意味がわかる気がした。

 その笑いが収まる前に、廊下の方から足音が響いた。重くて大きく、しかしどこか慌てている。引き戸が激しく開いて、青鬼の面をつけた大柄な影が飛び込んできた。

「し、し、し、所長! お客様が――」

 鬼は灯子を見て、止まった。灯子も鬼を見て、固まった。

「来てる」と閻魔丸が言った。「ぽん太、この人が新所長」

「ちょっと待ってください、まだ決定していません」

 鬼――ぽん太と呼ばれた獄卒は、灯子と閻魔丸を交互に見て、それからみるみる目に涙を溜めた。

「あ、あの、よ、よろしくお願いします……っ」

 灯子は天井を仰いだ。

 書類の山と、謎の閻魔と、泣き虫の鬼。まだ自分が生きているかもわからない場所で、いつのまにか交渉の席についている。これが現実なのか死の間際の幻覚なのか判断できないまま、灯子は一つ深呼吸をした。

 まず、書類の内容を確認する。それが弁護士としての、最初の仕事だ。

「山の一番上の書類を見せてください」

 声に出した瞬間、書類の峰の向こう側から、また別の気配がした。

笑う閻魔と、三丁目の相談所

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笑う閻魔と書類の山

夕凪 一葉

2026-05-14

前の話
第2話 笑う閻魔と書類の山 - 笑う閻魔と、三丁目の相談所 | 福神漬出版