冥界出張所の奥の間には、古い将棋盤がある。

 桐の板に染みついた指の脂は、何百年分ものものなのか、灯子にはわからない。ただ、昨日まで閻魔丸と牛島が向かい合って座っていたその盤面を見ると、駒が丁寧に端へ寄せられていて、まるで誰かが「続きはまた今度」と言い残したようだった。

 灯子は書類を抱えたまま、しばらくその将棋盤の前に立っていた。

「灯子さん、お茶をどうぞ」

 骨川さだが湯呑みを差し出した。今日の彼女は藤色の絣に白い前掛けで、湯気の向こうから目を細めている。長年この場所に居ついた古株幽霊の目は、現世の何年分もの時間を見てきたはずなのに、どこまでも穏やかだ。

「ありがとうございます」灯子は礼を言って湯呑みを受け取り、ため息をついた。「今日、牛島さんを説得できなかったら、どうするつもりでしたか」

「そうですねえ」さだは少し考えるような顔をした。「閻魔丸さまが何とかなさったでしょう。あの方は、ああ見えて……」

「ああ見えて?」

「ちゃんと、人の話を聴いておいでですよ」

 それ以上は言わなかった。さだはそういう人だ——幽霊だが——余計なことを口にしない。灯子は湯呑みを両手で包み込み、廊下の向こうに目を向けた。

 今日が、その日だった。

 牛島 庄平は約束の刻限より少し早く現れた。

 黒い作業着に大きな手。生前は建設現場の監督をしていたという。六十四歳で急逝し、本来ならとうに転生が完了しているはずだったのに、担当書記の誤記によって「何も持たない孤独な資産家」として転生先が登録されていた。人の声の中で働くことを生涯の喜びとしてきた男が、無縁の豪邸に一人で放り込まれる予定だったのだ。

 それを三百年分の文書から掘り起こしたのが灯子で、明治三十二年に発出された「本人意思尊重に関する内達」を根拠に異議申立を宣言したのが、昨日のことだった。

「来ました」

 牛島は言った。それだけ言って、上がり框に腰を下ろした。靴を脱いで上がろうとしない。灯子はその向かいに正座し、書類を膝の上に広げた。

「昨日は将棋でしたが、今日は交渉です」

「交渉ね」牛島は苦笑した。「現役の頃は組合とさんざんやり合いましたよ。私が交渉する側でしたがね」

「今日は私がします。聴いていてください」

 奥の座布団に閻魔丸が現れたのは、そのときだった。

 いつも通りのくたびれた作務衣に、頭頂部がわずかに光っている。書類仕事が嫌いで雑務を丸投げするくせに、こういうときだけ絶妙な間で現れる。灯子は内心で舌打ちをした——頼もしいのか腹立たしいのか、いまだに判断がつかない。

「よ」閻魔丸が座った。「続きやろうか、牛島さん」

「将棋ですか」

「交渉の続きだ。昨日の私の話、まだ終わってなかったから」

 牛島の眉が少し動いた。

 灯子は書類を読み上げた。

 明治三十二年の内達の該当箇所、冥界転生局の誤記に関する規程、そして灯子が昨夜かけて書き上げた「転生先変更申請書(異議申立付)」。骨川さだが三百年かけて整理した書棚から引っ張り出した判例——正確には冥界では「先例」と呼ぶ——も添付した。

 数字と条文が続く。牛島は黙って聴いていた。

 灯子が読み終えると、閻魔丸が口を開いた。

「ということでな、牛島さん。あんたには本来、別の転生先を選ぶ権利があったんだ。その機会を奪ったのはこっちのミスだ」

「……ミスを認めるんですか。冥界が」

「認めます」灯子が言った。「そして、改めて意思を確認させてください。あなたが望む転生の形を」

 牛島は長い沈黙の後、こう言った。

「私は、誰かの役に立ちたかった。現場でもそうでした。若い職人が怪我したとき、近所のおばあさんが困っているとき……そういうとき、自分が一番生き生きとしていた」

「はい」

「だから、また誰かのそばにいたい。上に立つんじゃなく、隣に立って支えるような……そういう仕事がしたい」

 灯子は書類をめくり、一枚を取り出した。

「これをご覧ください」

 転生候補先のリストだった。閻魔丸が昨夜のうちに冥界転生局に掛け合い、灯子の申請書を先行受理させて引き出したものだ——つまり書類仕事が嫌いなはずの閻魔丸が、徹夜で動いていたことになる。灯子はそれを知っていたが、あえて何も言わなかった。

「介護施設の看護師、です」灯子は指でその行を示した。「某県立の老人ホームに来春入職する予定の、二十六歳の女性。温かくて粘り強い人になるはずです。毎日誰かのそばにいて、名前を呼んで、手を握る仕事です」

 牛島は紙を受け取り、しばらく見つめた。

「……女性に転生するんですか」

「性別は関係ありません」閻魔丸が言った。「魂に性別はない。あんたの芯はそのまま引き継がれる」

「現場監督から看護師か」牛島はぼそりと言った。「ずいぶん遠いな」

「でも、やることは同じじゃないですか」灯子は言った。「誰かが困っているとき、隣に立つことでしょう」

 牛島の大きな手が、書類の上でゆっくりと動いた。

 承諾のサインをもらったのは、それから小一時間後のことだった。

 ぽん太が外から飛び込んできて(相変わらず入り口のすのこを踏み抜きながら)、書類を受け取って冥界転生局へ走っていった。その背中を見送りながら、牛島は「あの鬼は大丈夫ですか」と心配そうに言ったので、灯子は「慣れてください」と答えた。

「慣れようにも、もうここへは来ませんから」

「そうでした」

 牛島は立ち上がり、上がり框のところで靴に足を入れた。振り返ると、その顔には生前の写真で見た作業着の男と同じ、ちょっと照れたような笑い方があった。

「悪くない」

 それだけ言って、彼は路地に出た。秋の陽の傾いた境界路地を、大股でまっすぐ歩いていく。その背中が角を曲がったとき、灯子はなぜか胸の奥が詰まるような感覚を覚えた。泣くほどではない。でも、確かに何かが動いた。

「さださん、あの書類、控えをとっておいてください」

「はい、もちろんですよ」

 さだはしっかりと受け取り、奥へ消えた。

 閻魔丸は縁側に出て、空を見ていた。

 冥界の空は現世の空より少しだけ色が濃い——藍と紫の間のような、夕暮れでも夜でもない色。灯子がそこへ並んで立つと、閻魔丸はちらりと横を向いた。

「書類、よく調べたな」

「仕事ですから」

「三百年分だぞ」

「一晩かかりました」

 閻魔丸はしばらく黙っていた。風が路地を抜けて、軒の風鈴が小さく鳴った。現世ではもう風鈴の季節は終わっているはずなのに、境界路地の時間はいつもわずかにズレている。

「なかなかやるじゃないか」

 ぽつり、と閻魔丸が言った。

 三千年生きてきた冥界最高権力者の口から出たその言葉は、「よくやった」でも「ご苦労」でもなかった。「なかなかやるじゃないか」——まるで初めて相手を対等の位置に置いたような、そういう言い方だった。

 灯子は少し間を置いて、答えた。

「当然です」

「謙遜しろよ」

「弁護士は謙遜しません」

「なんだそりゃ」

 閻魔丸が笑った。あの、ツボのよくわからない笑い方で。灯子は笑わなかったが、口の端が少し動いたのは、まあ、仕方がない。

 縁側で二人並んだまま、藍と紫の空をしばらく見ていた。

 その夜遅く、相談所の戸が小さく叩かれた。

 灯子が出ると、藤代朔が立っていた。いつもの飄々とした顔で、片手に紙袋を下げている。

「お邪魔します。今日、うまくいったんですか」

「なぜ知っているんですか」

「路地で牛島さんとすれ違いましたよ。なんか、晴れ晴れした顔してました」

 灯子は腕を組んだ。この青年は毎週現れ、依頼とも世間話ともつかない話を持ち込む。生きているのか死んでいるのかもわからない。しかし今日の目は、いつもと少し違った。何かを探しているような、あるいは——何かを決めようとしているような目だった。

「今日は相談ですか」

「……そうかもしれません」朔は少し笑った。「俺のことで」

 灯子は一歩、引いて戸を開けた。

「どうぞ」

 境界路地に、夜が来た。

笑う閻魔と、三丁目の相談所

10

転生クレーム解決と牛島の決断

夕凪 一葉

2026-05-22

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