相談所の奥の間には、冥界公式文書の束が山をなしていた。
正確には「山」というより「山脈」だった。
榊原灯子は卓袱台の前に胡座をかき、湯呑みを両手で包みながら、その地層のような書類の塔を無言で見つめた。骨川さだが「おほほ、三百年分ほど溜まっておりますよ」と笑いながら出してきたのだから、三百年分の堆積物である。紙の匂いというより、念の匂いがした。
「転生規程、転生規程……」
独りごちながら、灯子は片端から表紙をめくっていく。冥界の公文書は縦書きで、活字のくせに妙に筆の勢いを感じさせる字体で刷られていた。時代によって書式がばらばらで、明治期のものは達筆すぎて解読に三倍の時間を要した。
牛島肇の件を正式に受理してから、まる一日が経っていた。
冥界の時間感覚は現世とずれているから「一日」という言い方も正確ではないが、灯子の感覚としてはそう呼ぶしかない長さが過ぎていた。その間ずっと、この書類の山と格闘している。
問題は単純だった。「虎のはずが飼い猫にされた」——閻魔丸のメモ、「※なお猫科」の一行が引き起こした転生ミスである。しかし冥界の転生規程がどうなっているかを知らなければ、異議申立の根拠にならない。弁護士として、灯子はまず法律を調べる。それは癖というより、呼吸のようなものだった。
問題の条文はなかなか見つからなかった。
そもそも冥界の規程は体系化されていない。現世の六法全書のようなものはなく、勅令だの通達だの慣習法だのが三百年どころか千年単位で積み重なっているだけだった。灯子は途中、思わず「なんだこれは」と声に出した。
「どうかされましたか」
さだが盆に茶菓子を持ってのれんをくぐってきた。
「体系化されてないんです、まったく。現世の法律でも古い慣習法は整理が大変ですが、これは輪をかけてひどい。そもそも転生の管轄省庁はどこですか」
「はて、省庁……そういった考え方はありませんねえ。閻魔様がおよそ万事おひとりで裁定なさいますから」
「一人で全部?」
「ええ。まあ、それゆえ時々……その、ほら」
さだは言葉の末尾を濁した。「※なお猫科」の話である。灯子は深く息を吐いた。
「要するに独任制の裁判所が規程も整備せずに三千年動いてきたということですか」
「そう言われますと耳が痛いのでございますが」
「おまけに上訴機関もない」
「まあ、閻魔様より上、というのは」
「ない、ということですね」
灯子は湯呑みの茶を一息に飲んで、また書類の山に向かった。
けれど——と彼女は思う。ないということは、すなわち空白だ。空白は必ずしも不利ではない。
灯子が弁護士だった頃、師事した先輩から言われた言葉がある。「法律に書いていないことは、禁止されていない」。そしてその逆も真で、「明文化されていないことは、主張の余地がある」。
あと二時間ほど読み込んだとき、灯子はそれを見つけた。
明治三十二年付けの通達、薄れた墨の文字で「転生先の決定に際し、本人の意思及び徳行の種別を最大限尊重すべし」とある。拘束力のある条文ではなく、ただの通達だった。しかし通達は行政解釈の基準になりうる——冥界がどこまで現世の法理論を援用できるかは未知数だが、少なくとも灯子の手には「本人の意思の尊重」という旗が渡った。
「牛島さん、これで戦えます」
灯子は誰もいない部屋に向かって宣言した。それから少し恥ずかしくなって、茶を啜った。
*
相談所の表の間、縁側に面した六畳間から、駒を打つ音がしていた。
書類を抱えて廊下を歩いていた灯子が足を止めたのは、その音が妙に静かで、しかもその静かさの中に会話が混じっていたからだった。
のれんの陰から、灯子はそっと覗いた。
縁側に将棋盤が置かれていた。向かい合っているのは、閻魔丸と——牛島肇の霊だった。
牛島は昨日、「正式受理されたなら待つ」と相談所に居座っている。大柄で眉の太い男で、生前は建設現場の監督だったという。怒鳴り声が大きく、声だけなら現役の親分衆に引けを取らない。
けれど今は、そのいかつい顔が盤面に落ちて、どこか穏やかだった。
閻魔丸は例によって、派手な水色の着流しを崩して胡座をかいている。書類仕事のときの倦怠感が嘘のように、目が真剣だった。正確には——真剣というより、静かだった。静かに、盤を見ていた。
「……おまえさんは現場で何が一番楽しかった」
閻魔丸が、駒を指しながら言った。質問というより、独り言に近い低い声だった。
牛島が少し間を置いた。
「若い衆が一人前になるのを見るときですね。なんもできなかったのが、足場を組めるようになって、段取りを覚えて、後輩に教えるようになって」
「ふん」
「あんまり誉めるとつけあがるから、言わないんですよ、その場では。でも内心は、まあ、誇らしかった」
閻魔丸は黙って次の手を指した。牛島が盤を眺め、唸った。
「……だから、虎でも何でもよかったんです、本当は」
牛島の声が少し低くなった。
「なんか、でかくて、強くて、群れに頼られるようなやつに生まれ変われたらって。弱ってる仲間を守ってやれるようなやつに」
閻魔丸は返事をしなかった。ただ、駒を持ったまま少しだけ止まった。その一瞬の止まり方が、灯子にはわかった。聴いている、と。
閻魔丸は聴いていた。
笑わず、急かさず、解決しようともせず、ただ、聴いていた。
「でも飼い猫か」
しばらくして、閻魔丸がぼそりと言った。
「まあ、猫でも頼られることはあるぞ」
「頼られる猫って何ですか」
「独居老人の話し相手とか。毎日顔を見れば安心するとか」
牛島がそれを聞いて、口をへの字に曲げた。しかしへの字は、少しずつ緩んでいった。
「……まあ、役に立つには違いないですかね」
「違いない」
閻魔丸は短く言い、駒を打った。牛島が「あっ」と声を上げた。詰められたらしかった。
「強いじゃないですか、あなた」
「千年以上やってるからな」
「それはずるい」
二人が笑った。牛島の笑い声は大きく、閻魔丸のは短くくぐもっていた。しかし確かに、笑い声だった。
灯子は廊下の陰で、書類を胸に抱えたまま動けなかった。
閻魔丸が笑いのツボが謎だとか書類仕事が嫌いだとか、雑務を丸投げするとか、そういうことは知っている。しかし今見えたのは、もっと別の何かだった。冥界最高権力者の肩書きも着流しの派手さも関係なく、ただ一人の亡者の話を、じっくりと、盤面に目を落としながら聴いている男の姿だった。
三千年分の亡者の話を、彼はこうやって聴いてきたのだろうか、と灯子は思った。
笑いのツボが謎なのも、書類が嫌いなのも、もしかしたら全部の話を覚えているからかもしれない。三千年分の、一人ひとりの話を。それを書類に還元することへの、何か別の感情が混じっているのかもしれない。
灯子にはまだわからない。けれど、わからないということが、今は腑に落ちる感じがした。
「榊原」
突然、閻魔丸が振り返りもせずに言った。
「そこで突っ立ってないで入れ。おまえの依頼人だろうが」
灯子は少し固まってから、のれんをくぐった。牛島が顔を上げ、「来たか」と言った。
「牛島さん、戦える根拠が見つかりました」
灯子は畳に膝をつき、抱えてきた書類を広げた。
「明治三十二年付けの通達に、転生先の決定において本人の意思を最大限尊重すべしとあります。閻魔丸、あなたのメモは本人の意思の確認なしに転生先を変更したのと同義です。この通達を根拠に、正式な異議申立の場を設けることを求めます」
閻魔丸は将棋盤から顔を上げ、灯子を見た。その目が、今日初めて面白そうに細くなった。
「明治三十二年の通達を引っ張り出してきたか」
「抜け穴は必ずある、というのが持論です」
「……まあ、おもしろい」
閻魔丸はそう言っただけで、また盤に目を戻した。
「続きは明日な」
「明日で大丈夫なんですか」
「問題ない。牛島、次の一手だ」
牛島がにやりとして駒を持った。灯子は書類を抱えたまま、しばらくその二人の横顔を見ていた。縁側から差し込む冥界の白い光が、将棋盤の上で静かに揺れていた。
——この人は、案外ずっとこうしていたのかもしれない。
笑って、聴いて、裁いて。
三千年、ひとりで。
灯子はそっと立ち上がり、廊下に出た。その背中で、牛島の笑い声がまた聞こえた。
異議申立の正式な場を設けるには、冥界本部への文書提出が必要になる——その事実に気づくのは、翌朝のことだった。