境界路地に秋が来ていた。

 正確には、現世ではまだ残暑が残っているはずだった。だが冥界側に半歩だけ足を踏み入れたこの路地には、どこからともなく金木犀の香りが漂い、石畳の隙間から薄紅色の何かが顔を出している。名前の分からない花だ。この世のものでも、あの世のものでもない、境界にだけ咲く花。灯子はそれを踏まないよう慎重に歩きながら、相談所の引き戸に手をかけた。

 今日は呼ばれていた。

 珍しいことに、閻魔丸直々の呼び出しだった。文言はぽん太が手書きで届けた紙切れに書いてあって、「きてください。たいせつなはなし。まるより」という、冥界最高権力者の通達とは到底思えない文体だったが、筆圧だけは異様に強かった。紙に穴が開きそうなほど。

 灯子はそれを読んで、何となく覚悟を決めた。

 引き戸を開けると、いつもと違う空気が漂っていた。

 土間から続く板間に、なぜか紅白の水引が飾られていた。骨川さだが丁寧に結んだものらしく、その几帳面な仕上がりが場違いにも厳粛な雰囲気を醸していた。囲炉裏には火が入っており、やかんがしゅんしゅんと湯気を立てている。ぽん太は隅で直立不動になっており、なぜか角を磨き上げたのか、ぴかぴかと光っていた。

「お待ちしておりました」

 さだが奥から出てきて、深く頭を下げた。三百年ぶんの礼儀作法が滲むような、静かで重たいお辞儀だった。灯子は何も言えず、ただ頷いた。

 奥の部屋の襖が開いた。

 閻魔丸が座っていた。

 いつもは書類の山に埋もれてへらへらしているか、間の抜けた笑顔で駄菓子をつまんでいるかのどちらかだ。だが今日は、違った。正座していた。背筋が伸びていた。表情から、笑みが消えていた。

 灯子は初めて、この存在が本当に閻魔なのだという実感を覚えた。

「座れ」

 短い一言だったが、声の質が違った。普段の間の抜けた響きでなく、何百年もの裁きを積み重ねてきた声だった。灯子は黙って腰を下ろした。

 閻魔丸はしばらく灯子を見ていた。品定めでもなく、値踏みでもなく、ただ静かに。

「榊原灯子。貴様をこの縁結び相談所の所長に任ずる」

 読み上げるというより、言い渡すという感じだった。判決みたいだな、と灯子は思った。

「任命書は作った」

 差し出された紙を見ると、やはり字が下手だった。しかし朱印だけはやけに立派で、それが冥界の公文書であることを有無を言わさず主張していた。

 灯子はその紙を受け取り、一度だけ目を通してから、膝の上に置いた。

「一つ、条件があります」

 閻魔丸の目が動いた。

「言え」

「私は、現世に戻ります」

 はっきりと、灯子は言った。

「半死半生のまま、ここに居続けるつもりはない。この仕事を引き受けます。縁を繋ぐ意味も、分かってきた気がしている。さださんのことも、ちゃんとやり遂げたい。でも、私には現世がある。弁護士としての仕事がある。生きて、人の役に立てる時間がある。だから――現世復帰の権利を、保持し続けることを条件にします」

 言い切ったあと、少しだけ心臓が跳ねた。

 弁護士時代には何百回と条件交渉をしてきた。でも今夜ほど、自分の言葉が自分自身の核心に触れていると感じたことはなかった。これは交渉じゃない。これは、宣言だ。

 閻魔丸はしばらく動かなかった。

 炭が爆ぜる音がした。やかんが鳴いた。ぽん太が鼻をすする音がした。

 そして閻魔丸は、ゆっくりと口を開いた。

「その条件、受け入れよう」

 普段の軽さとは全く異なる、重い一言だった。

 灯子は一瞬、拍子抜けした。もっと揉めると思っていた。何かを押し返されると思っていた。なのに、あっさりと。

「……本当に、いいんですか」

「ああ」

「理由を聞いても?」

 閻魔丸はしばらく黙った。そして、ほんの少しだけ目を細めた。

「それは、まだ言わん」

 その一言が、何故か灯子の胸の深いところに引っかかった。まだ、という言葉が。いつか言う、ということか。あるいは言えない何かがある、ということか。

 追及しようとした口を、灯子は閉じた。今日はいい。今日は、ここまでで十分だ。

「分かりました。榊原灯子、正式に所長を受諾します」

 深く頭を下げた。

 その瞬間、ぽん太が爆発した。

「うわあああああ灯子さああああん!!」

 どすどすと床を揺らしながら駆け寄ってきたぽん太の目には、大粒の涙が光っていた。磨き上げた角から涙が伝っているのは、なかなか見ない光景だった。

「おめでとうございますぅ、おめでとうございますぅ!ぽん太、嬉しくて、嬉しくて……!」

「泣きながら抱きついてくるな、重い重い重い!」

「でも嬉しいんです、灯子さんがいなくなったらどうしようって、ずっとぽん太心配で……!」

「離れろ、ちゃんと離れろ!ほら接客研修の基本、まず一歩引く!」

「でっでも今は接客じゃなくて――」

「どんな場面でも基本は同じ!」

 ぽん太は泣きながら一歩引いた。そして深々とお辞儀をした。それはぎこちなく、おそらく正しくない礼の形だったが、どこか一生懸命で、灯子は笑いたいのか泣きたいのか分からない気持ちになった。

「……ありがとう、ぽん太」

「はいっ!ぽん太もがんばります!」

 さだが静かに近づいてきた。三百年を生きてきた目が、柔らかく細まっていた。

「よかったですよ、灯子さん」

 それだけだった。でもその一言には、何十もの意味が入っていた。あなたを待っていた、という意味も、ありがとう、という意味も。そして、まだ終わっていない、という意味も。

 灯子はさだの目を見た。

「さださん、まだ途中ですから」

「ええ、存じております」

「絶対に、ちゃんと終わらせます」

 さだは何も言わずに頷いた。その目に、うっすらと何かが光った気がしたが、灯子は見なかったことにした。

 任命式とも祝宴ともつかない集まりが、しばらく続いた。さだが用意していた蓬餅が出てきて、閻魔丸が「うまいな」と一言だけ言い、ぽん太がまた泣いた。灯子は温かい茶を飲みながら、この奇妙な場所に、奇妙な仲間たちに、どうしようもない居心地の良さを感じていた。

 帰り際、灯子は引き戸を開けて路地に出た。

 金木犀の香りがまだ漂っていた。

 石畳の先、境界路地の端に、人影があった。

 藤代朔だった。

 いつもの薄い笑みではなかった。遠くから、こちらを見ていた。その目に浮かんでいるものが何なのか、灯子には読めなかった。懐かしさとも、安堵とも、何か別の何かとも取れる、曖昧で深い光。

 灯子は片手を上げた。

 朔は少し間を置いてから、静かに頷いた。

 そして路地の闇に、溶けるように消えた。

 灯子はしばらくその場に立っていた。金木犀の香りが夜風に揺れていた。名前のない花が、ひっそりと石畳に揺れていた。

 現世に戻る権利は、手放さない。それでいい。それが、今の自分の誠実さだと思う。

 でも今夜だけは、この境界路地が少しだけ、悪くないと思った。

 灯子は深く息を吸い込んで、来た道を歩き始めた。

笑う閻魔と、三丁目の相談所

15

第一幕の締め:灯子、所長を正式に受諾する

夕凪 一葉

2026-05-27

前の話
第15話 第一幕の締め:灯子、所長を正式に受諾する - 笑う閻魔と、三丁目の相談所 | 福神漬出版