朝というものが冥界にあるとすれば、それはきっとこういう光の差し方をするのだろう、と灯子は思った。
境界路地の突き当たり、木造平屋の軒先に吊るされた小さな提灯が、ほんのりと橙色に滲んでいる。現世の太陽光とも違う、どこか懐かしい色合いの光だった。昨日まで「居候」だった自分が、今日から「所長」として同じ引き戸を開ける。それだけのことなのに、足の裏から何か固いものが込み上げてくるような気がした。
灯子は表の看板を見上げた。〈なんでも相談、承ります〉。
弁護士時代、事務所の扉を初めて開けた朝のことを思い出した。あのときも手が震えた。今は震えていない。震える代わりに、奥歯を噛みしめている。
「さあ、仕事を始めましょうか」
誰に言うでもなく呟いて、灯子は引き戸を横に滑らせた。
――それが、悲劇の幕開けだった。
◆
「……何ですか、これは」
相談所の奥の間、普段は閻魔丸が昼寝に使っている座敷の隣に、物置と呼ぶのもためらわれる部屋があった。灯子はそこに踏み込んで、三秒ほど呼吸を忘れた。
天井まで届く棚が四列。その全てに、和綴じの帳面、洋紙の束、絵巻物のようなもの、見たことのない素材の書付、果ては竹簡まで、ありとあらゆる形状の書類が詰め込まれていた。詰め込まれている、というより、押し込められている。いくつかの帳面は棚から溢れ、床に積み重なって山脈を形成している。その頂上には、なぜか招き猫が鎮座していた。
灯子は一番手前の帳面を引き抜いた。表紙に日付らしき数字が記されている。元号を確認して、眉間に皺を寄せた。
「昭和三十一年」
次の棚の書類を手に取る。大正十四年。その隣は明治。さらに奥に踏み込むと、棚の木材そのものが古色を帯びており、そこに収められた巻物には江戸時代と思しき文字が躍っていた。
灯子はゆっくりと振り返り、廊下の向こうで煎餅を齧っている閻魔丸を見据えた。
「閻魔丸」
「ん?」
「この部屋の書類、全部未処理ですか」
「全部ではないかな」閻魔丸は煎餅を半分に割りながら、のんびりと答えた。「たぶん、九割くらい」
灯子の右のこめかみで、何かがぴきりと音を立てた。
◆
それから二時間後、座敷の中央に書類が三つの山に分類されていた。灯子は正座のまま背筋を伸ばし、閻魔丸と向かい合っている。骨川さだが両者の間にお茶を置き、そっと気配を消して柱の影に退いた。ぽん太が廊下で正座して待機しているのは、「万一の事態に備えてのことですよ」とさだに囁かれたためである。
「確認します」灯子は書類の山に手を置いた。「この案件、縁結び申請が出てから未処理のまま何年経っていますか」
「そこにあるのは……六十三年かな」
「これは」
「百四十年」
「これは」
「三百二十……あれ、思ったより新しかった。二百九十年くらいかも」
しん、と座敷が静まり返った。廊下でぽん太が小さく「こわい……」と呟いた。
「理由を聞かせてもらえますか」灯子の声は穏やかだった。穏やかすぎるほど穏やかだった。弁護士時代、法廷で相手方証人を追い詰めるときと同じ声だと、さだは柱の影でぶるりと震えた。「なぜ、これほどの案件が放置されたのか」
「理由はいくつかあってね」閻魔丸は煎餅を口に運びかけ、灯子の目線に気づいてそっと膝の上に戻した。「まず、縁結び部門が廃止されたとき、引き継ぎが杜撰だった。担当者がいなくなって、書類だけが残った」
「それが最初の積み残し」
「そう。で、その後も散発的に申請は来るんだけど、処理できる者がいないから棚に上げた。上げ続けた。気がついたら……こうなってた」
「何百年もかけて」
「うん」
灯子は目を閉じた。深呼吸を一つ。
「閻魔丸」
「はい」
「これは、全部、誰かの縁の話ですよね」
閻魔丸は珍しく、すぐに答えなかった。
「この二百九十年前の申請を出した人は、ずっと待ち続けているんですか。あるいはもう、諦めてしまっているんですか。三百年近く待たされて、それで縁が繋がると思いますか。縁って、そんなに待てるものですか」
一語一語が、静かに、しかし確実に積み重なっていく。灯子の声は終始穏やかなまま、それゆえに言葉の重さが逃げ場を失っていた。
「あなたが一番よく知っているはずです。縁がどれほど繊細で、どれほど時間に左右されるか」
閻魔丸はしばらく黙っていた。それから、困ったように頭を掻いた。
「だから所長が必要だったんだよ」
にっこりと、本当に屈託なく笑って言った。
灯子の中で何かが爆発した。
「そういう話じゃないでしょう!」
◆
怒声が収まったあと、さだが淹れ直した番茶を三人で飲んだ。ぽん太は廊下で正座したまま、湯呑みだけ縁側に出してもらっていた。
「灯子さん」
さだが静かに口を開いたのは、灯子が四杯目のお茶を飲み終えたころだった。
「閻魔様がずぼらなのは、本当のことですよ。書類が嫌いなのも、先延ばしにしがちなのも、全部本当のことです」
「フォローになってないですよ、さださん」
「でも」さだは皺だらけの手で自分の湯呑みをそっと包んだ。「三百年、ここにいると、見えてくることがありますよ。閻魔様は、一つ一つの案件を、忘れてはいないんです」
灯子は顔を上げた。
「あの物置の書類をね、閻魔様は時々出してきて、ご自分で読んでいます。声に出して。誰もいないと思ったときに、ひとりで」
視線が閻魔丸に向く。閻魔丸は煎餅を見つめていた。
「処理できなかった案件を、ひとりで読み上げて、それから棚に戻す。そういうことを、何度も見ました。おそらく書類の数だけ、何度も」
灯子は何も言えなかった。
「閻魔様にとって、あの書類は記録じゃないんです」さだは続けた。「ちゃんと、誰かの話として、残してあるんです。ただ、自分では動かせなかった。動かし方が、わからなかった。……それだけのことなんですよ」
しばらく沈黙が続いた。
閻魔丸がぽつりと言った。
「煎餅、灯子にやろうか」
「……要りません」
「そうか」
また沈黙。今度はどこかやわらかい種類の沈黙だった。
「わかりました」灯子はお茶を一口飲んで、書類の山を見た。「全部、整理します。古いものから順番に優先順位をつけて、処理可能なものと困難なものを分類して、対応策を立てる。ただし」
灯子は閻魔丸を正面から見た。
「作業中は、私の指示に従ってもらいます。書類仕事が嫌いでも、確認作業は手伝ってもらう。それが条件です」
閻魔丸は少し考えるふりをして、すぐに笑った。
「いいよ」
「ぽん太さんも手伝ってもらいます」
「は、はいいぃ!」廊下から返事が飛んできた。
「さださんは記憶力が頼りです。古い案件の背景を教えてください」
「喜んで」
灯子は立ち上がり、物置の前に戻った。書類の山を見渡す。どこから手をつけるべきか。最も古いものか、最も緊急性の高いものか。
帳面を一冊手に取る。昭和三十一年の日付。ページを開くと、筆書きの文字が並んでいた。申請者の名前、相手方の名前、願いの内容。
灯子は息を呑んだ。
申請者は、その年に亡くなった男性だった。願いの内容はたった一行。
〈妻に、有難うと伝えてほしい〉
それだけだった。
六十三年間、棚の中で誰にも届かなかった言葉。
灯子は帳面をそっと閉じて、胸の前で抱えた。弁護士だった頃も、依頼人の言葉をこんなふうに胸の前で抱えたことがあったか。もしかしたら、あったかもしれない。
「全部、やります」
誰にというわけでもなく、灯子は言った。
物置の奥で、招き猫が微笑んでいる。
そのとき、表の引き戸が、からりと音を立てた。
灯子が振り向くと、廊下の先、開いた引き戸の向こうに、藤代朔が立っていた。いつもの静かな目で、まっすぐこちらを見ている。その手には、見慣れない封筒が一通、握られていた。