境界路地に秋が来ていた。
正確には、現世の秋より半月ほど遅れてやってくる冥界の秋だ。路地の両端に植わった正体不明の木が、誰も手を入れていないのに勝手に紅葉している。骨川さだに聞けば「あれは彼岸花の木ですよ」と涼しい顔で言うだろうが、灯子はまだその答えを確かめる気になれなかった。知らないままでいいことというのは、ここにはたくさんある。
相談所の縁側に、村雨隆一が座っていた。
昨日初めて訪れたときと同じ、薄汚れた紺の作務衣姿だ。ただ、今日は背中が少し丸くなっている。七十三年分の罪を一晩かけて整理しようとした人間の背中だと、灯子には分かった。
「待たせました」
灯子が言うと、村雨は振り向きもせず「いえ」と答えた。
「考えがまとまりましたか」
「まとまる話じゃないんですがね」
老人は縁側の端で膝を揃え、しみだらけの手を眺めていた。「百人に謝りたいと言ったが、わしはたぶん、許してもらえるとは思っておらん。ただ、言わずに消えるのがどうしても嫌なんです」
灯子は黙って隣に腰を下ろした。板が軋む音がした。
「それで十分ですよ」と、奥から骨川さだが盆を持って出てきた。湯飲みが二つ。「謝罪というのはね、許してもらうためにするもんじゃないんです。自分が人の形のまま死ぬために、するもんですよ」
村雨がはっと顔を上げた。さだはそれ以上言わず、盆を縁側に置いて静かに引っ込んだ。
灯子は湯飲みを一つ、村雨の前に押した。
「今日は一人だけ、会ってもらいます」
村雨の眉が動いた。
「百人全員は無理です。転生している魂もいれば、まだこちらにいる魂もいる。でも、一人なら会わせることができる。かつてあなたが騙した被害者で、三年前にこの境界を越えた女性です」
「名前は」
「言えません。ただ、彼女は転生待ちの状態で、まだここにいる。それだけ教えます」
村雨は長い沈黙の後、「わかりました」とだけ言った。
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セレモニーと呼ぶには地味すぎる段取りだった。
相談所の奥の間に小さな文机を置き、そこに便箋と墨と筆を用意する。村雨に書いてもらうのは手紙だ。直接会わせるのではなく、手紙を届ける。閻魔丸がぐうたら書類仕事をサボっている執務室の隣の空間が、この日だけ薄い膜一枚で繋がっていて、その向こうに相手の魂がいる。
「筆は嫌ですかね。ボールペンはないですか」
村雨が困り顔で言うと、ぽん太が飛び出してきた。上着のポケットをごそごそ漁り、「これでいいですか」と差し出したのは可愛い猫の絵柄のボールペンだった。
「ぽん太」
「あ、すみません、自分、文具の趣味がちょっと……」
「いいんです、ありがとう」と村雨が静かに笑った。ぽん太がぼろぼろと涙をこぼし始めたので、灯子は目で制した。
村雨が手紙を書く間、灯子は廊下で待った。板張りの廊下は冷えていて、靴下の薄さが足の裏に伝わってくる。奥の間の障子越しに、猫ボールペンのカリカリという音だけが聞こえていた。
二十分後、村雨が出てきた。顔色は蒼白に近かったが、目は澄んでいた。
「渡せますか」
「渡します」
灯子は手紙を受け取り、奥の間の文机の上に置いた。しばらく待つと、紙がふわりと持ち上がり、膜の向こうに吸い込まれていった。
返事は来なかった。来ないことは最初から分かっていた。
でも、村雨は縁側に戻ってから、長い息を一つ吐いた。肺の底から何かが出ていったような、そういう息だった。
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夕方、村雨が帰った後、灯子は一人で相談所の台所に立っていた。
湯飲みを洗いながら、頭の中に村雨の言葉がこだましていた。
――言わずに消えるのがどうしても嫌なんです。
水が手に当たる。冷たい。冥界の水はいつも少し温度が低い。
灯子は手を止めた。
自分が不当解雇されたのは、三年前のことだ。大手法律事務所で、依頼人の利益ではなく裏金を優先した上司の不正を告発した。そのせいで、逆に「業務妨害」の名目で弾き飛ばされた。証拠を揃えて戦おうとしたが、事務所の顧問弁護士が一枚上手だった。
灯子が「半死半生」になったのは、その判決が出た夜のことだ。詳しいことは自分でもよく覚えていない。覚えていたくないのかもしれない。
その上司は今も、同じ事務所で肩書きを増やして生きている。
灯子は、まだ彼を許していない。
許していないことを、灯子はずっと「正当な怒り」だと思っていた。理不尽に対して怒るのは正しいことだ。食ってかかるのが自分の流儀だ。論理があり、根拠がある。感情ではなく事実として、あいつは間違っている。
でも村雨の背中を見ていたら、ふと気づいた。
灯子は誰かに謝りたいとは思わないのか。
謝りたい相手が、一人いる。
告発した日、事務所の後輩が止めに来た。「先輩、これをやったら消されます。一緒に戦えなくてごめんなさい」と泣いていた。灯子は「いい、あなたは関係ない、巻き込まない」と突き放した。その後、後輩は別の事務所に移り、今どうしているか知らない。
突き放したのは正しかったと今でも思う。でも、あの子にちゃんと「ごめん」と言えたか。怖くて一人でやろうとして、怖いのを悟られないように突き放して、あの子の気持ちをちゃんと受け取ったか。
灯子は湯飲みを洗い終えて、台所の椅子に座り込んだ。
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「村雨さんが帰ってから、ずっとここにいますね」
朔が台所の入り口に立っていた。いつから来ていたのか、こちらも相変わらず分からない。
「お茶でも淹れようと思って」と灯子は言ったが、やかんに火をつけていないことは二人とも知っていた。
朔は椅子を引いて向かいに座った。夕暮れの光が台所の小窓から差し込んで、彼の横顔を半分だけ照らしている。
「灯子さんも、誰かに謝りたいことがあるんじゃないですか」
静かな声だった。責めでも詮索でもない。問いかけというより、ただの確認のような声だった。
灯子は否定しようとした。でも口が開かなかった。
「……一人、います」と代わりに出てきた言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
「後輩の子です。正義感みたいなもので突き進んで、助けようとしてくれた子を、私が一人で壁になって遮断した」
「その子が傷ついたと思って?」
「分からないんです。でも、あの子が泣いていた顔が、頭から消えない」
窓の外で、冥界の紅葉がひとひら、ひらりと落ちた。
「村雨さんが手紙を書いていた二十分の間、どんなことを書いていたか、灯子さんは想像しましたか」
朔の問いに、灯子は頷いた。
「あの紙の中に、謝罪だけじゃないものが入っていた気がします」と朔は続けた。「許してほしいという祈りと、自分がここまで歪んだ理由と、でもそれは言い訳じゃないという必死さと。全部を詰め込んで、でも渡してしまった後は、もう返ってこない」
「……ええ」
「灯子さんも、どこかに届けられますよ、きっと」
灯子は答えなかった。
ただ、目の奥が急に熱くなって、こらえるより先に、一粒だけ涙が落ちた。
恥ずかしいとは思わなかった。ただ、三年分の怒りの下に、ずっとこれが眠っていたのだと、初めて知った。
やかんがまだ冷たいまま台所に置かれていて、朔はそれ以上何も言わなかった。
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その夜遅く、閻魔丸が書類の山から顔を出した。
「なあ、灯子」
「なんですか」
「村雨の案件、百人全員に届けるには冥界本部の許可がいる」
灯子は顔を上げた。
「本部が、一件ずつ審査するって言ってきた」
閻魔丸は珍しく笑っていなかった。
「これ、揉めるぞ」