夜が深くなると、境界路地はいつも少しだけ静かになる。
現世の物音――遠くを走るバスのエンジン音、酔客の笑い声、どこかの家から漏れるテレビの音――がゆっくりと遠ざかり、そのかわりに冥界側のくぐもった静寂が染み込んでくる。風もないのに軒先の風鈴が鳴り、どこかの縁の下で何かが小さく息をする。生と死のあいだに挟まれたこの場所は、そういう夜にだけ、正直になる。
灯子は縁側に腰を下ろし、湯飲みを両手で包んでいた。
中身はさだが淹れた蕎麦湯だ。ほんのり黄みがかって、湯気が細く立ち上っている。閻魔丸はとうに奥の間へ引っ込んでしまい、ぽん太は「今日こそ挨拶の練習を完璧にしてみせます」と言い残して裏庭へ消えた。藤代朔は最初から姿を見せていない。
村雨隆一が帰ってから、もう二時間は経つだろうか。
あの人が書いた手紙の字を、灯子はまだ瞼の裏に見ている。震えた筆跡で綴られた「申し訳ありませんでした」という文字列。返事の来ない謝罪という、宙に浮かんだまま降りてこない言葉たち。
「灯子さん」
さだが隣に座った。気配がないのは三百年の習慣だろうか。するりと縁側の板の上に収まって、同じように湯飲みを持ち、同じように夜を見ている。
「あの人、少し楽になりましたかね」
「なったと思います」灯子は答えた。「全部が解決したわけじゃない。でも、自分で区切りをつけた。それは本人にしかできないことだから」
「そうですねえ」
さだは長い息をついた。ほとんど音のない、老いた木が軋むような息。
沈黙が続いた。灯子は湯飲みを口に近づけ、蕎麦湯の温かさが指先から腕へ、腕から胸へ伝わるのを感じた。
「さださん」
「はい」
「私、今日泣いたのは」灯子は一度言葉を切った。「村雨さんのことだけじゃなかったんです」
さだは返事をしなかった。ただ、少しだけ灯子のほうへ体を向けた。それだけで十分だった。
「謝れていない人がいて」灯子は続けた。「後輩で、私が突き放した子で。仕事のことで意見が合わなくて、私が正論で封じて、そのまま彼女は事務所を辞めた。私は正しかったと思ってたから、ずっと謝ろうとしなかった」
「今も、正しかったと思いますか」
灯子はしばらく考えた。
「思ってます。言ったことの中身は。でも、言い方は違った。彼女の余白を潰すような言い方をした。それは間違ってた」
「そうですか」
「村雨さんを見ていたら、急に来たんです。胸の奥から。あ、私もそれを持ったまま来てしまったんだって」
来てしまった。この場所へ。半死半生のまま境界路地へ。
さだが「そうですねえ」と言った。それから「灯子さん、少し聞かせてもらえますか。もっと前のことを」
灯子は湯飲みを縁側の板の上に置いた。
「前というと」
「あなたがどうして弁護士になったか。ずっと聞きたかったんですけど、なかなか機会がなくて」
灯子は空を見た。境界路地の夜空は妙なもので、星が二重に見える。現世の星と、冥界の光が重なって、どちらが本物かわからない。
「父が死んだんです」灯子はまっすぐそちらを見たまま言った。「私が九歳のとき」
さだは黙って聞いている。
「事故でした。工場の事故。でも本当は事故じゃなかった。管理側の安全基準の不備で起きたことで、誰もがそれを知っていた。でも、会社は事故として処理して、遺族には見舞金を渡して、誰も責任をとらなかった」
灯子は一度目を閉じた。
「母は最初、戦おうとしてたんです。弁護士に相談して、裁判にしようとした。でも弁護士は途中で降りた。証拠が弱いからって。本当は会社に圧力をかけられたんだと思う。母は一人で戦えなくて、お金も続かなくて、最終的に示談にした」
「それで」
「それで終わったんです。父の死が、お金で。誰も悪くないことになって」
灯子の声は静かだった。感情を抑えているのではなく、もう何度も自分の中で反芻してきた言葉だから、自然と落ち着いている。でも落ち着いていることと、傷が癒えていることは別だ。
「母は何も言わなかった。私の前では一度も泣かなかった。でも夜中に台所で泣いてるのを一度だけ見た。私は見なかったふりをした。何もできなかったから。九歳だったから」
「九歳の子に何ができましょうか」さだがやさしく言った。
「わかってます。頭では。でも私はあの夜から、ずっと何かに追われてた。理不尽なことをそのままにしておく世界が許せなかった。誰も責任をとらないまま幕が下りることが許せなかった。だから弁護士になった」
灯子は笑った。苦さと誇りが混じったような、複雑な笑い方で。
「父の話を弁護士の動機にするのは恥ずかしいって、ずっと思ってたんです。ありきたりすぎて。でも本当のことだから仕方ない。私の一番根っこにあるのは、あの夜の台所と、母の背中なんです」
「恥ずかしくなんかないですよ」さだは言った。「大切なことというのは、だいたいありきたりな形をしているものです。愛とか、悲しみとか、守りたいという気持ちとか」
灯子は再び空を見た。
「私が半死半生になったのは、過労だと最初は思ってた。実際そうでもある。でも最近、違うとも思ってる」
「と、言いますと」
「弁護士として、理不尽と戦い続けて、それは確かに私の使命だったんだけど、途中から何かがずれてきた。依頼人のためじゃなく、自分の中の何かのために戦ってた。父を救えなかった怒りのために。でも怒りだけで走り続けると、どこかで燃料が切れる。私は燃料が切れる前に、半分死んだ」
「半分死んで、ここへ来た」
「ここへ来た」灯子は繰り返した。「最初は意味がわからなかった。縁結び相談所で何をしろというんだって。でも今は、少しだけわかる気がする。私がずっと見ようとしなかったもの――縁とか、繋がりとか、謝ることとか、許されることとか――そういうものを、ここで一つずつ見せられてる」
さだは長い間、何も言わなかった。
どこかで風鈴が鳴った。
やがてさだは、湯飲みをそっと板の上に置いて、灯子の顔を見た。しわの深い顔に、三百年ぶんの何かが浮かんでいた。
「あなたがここへ来てくれた理由が、わかりました」
灯子はさだの顔を見た。
「縁結びというのはね、灯子さん。切れた縁を繋ぐだけじゃないんです。結ぶべき縁がどこにあるかを、見つける仕事でもある」さだは静かに言った。「あなたは弁護士として縁を守ろうとしてきた。でも自分の縁を見る目が、少し曇っていた。だからここへ来た。ここで、それを取り戻すために」
灯子の喉の奥で、何かが緩んだ。
「さださんは最初からそれを知ってたんですか」
「いいえ」さだは首を振った。「さっき、やっとわかったんです」
それが妙に可笑しくて、灯子は小さく笑った。さだも笑った。二人で夜の境界路地に笑い声を落として、それきりまた静かになった。
灯子は目の奥が熱くなるのを感じたが、今度は泣かなかった。泣く必要がなかった。泣く前に、どこかへ流れていった。
裏庭からぽん太の声がした。「い、いらっしゃいませ……あっ、違う、こんばんはでしたっけ……うわあ」何かが派手にひっくり返る音。さだが「もう」とつぶやいて立ち上がる。
灯子は一人、縁側に残った。
空の二重の星を見ながら、父のことを思った。工場帰りの父がいつも持って帰ってきた金属の匂い。笑うと目が細くなるところ。日曜日に一緒に食べた目玉焼き。
それから、後輩の顔を思った。
謝りに行かなければ。でも今は、まだもう少しだけここにいる。
なぜなら、さだの言葉の続きが、どこかにある気がしたから。「あなたが来てくれた理由」の、もっと先が。
風鈴がまた鳴った。今度は少し長く、細く、夜の奥へ溶けていくように。