境界路地に秋が来ている。
来ている、というよりも、迷い込んでいる、という方が正確かもしれない。三丁目の路地裏では金木犀がとっくに散り、銀杏の葉が敷石を黄色く染め始めているのに、相談所の縁側から見える冥界の庭では、まだ夏の名残りのような白い光が漂っていた。季節がズレるとさだが言っていた。こちらでは時間そのものが、少しだけ遅れながら流れているのだと。
灯子はその朝、机の上に積み上げた書類の山と向き合っていた。
閻魔丸が昨夜こっそり忍び込んで置いていったらしい未処理案件が七件、それにぽん太の接客研修の記録が三枚、さだから託された縁結び規程集の第十二巻が一冊。頭の中で仕事の優先順位を組み立てていると、引き戸がカラリと開く音がした。
「おはようございます」
入ってきたのは、二人だった。
いや、正確には、二人でありながら一人だった。
同じ顔。同じ背丈。同じ黒髪のおかっぱ。ただ、右の子は白い浴衣を着ていて、左の子は薄紅の浴衣を着ていた。亡者だ、と灯子はすぐに分かった。生者にはない、あのかすかな透明感。二人ともそれを持っていた。
「ご相談があって参りました」
白い浴衣の子が言った。声は鈴が転がるようで、まだ若い。十七か、十八か。
「同じく」
薄紅の方が続けた。声の高さも、抑揚も、ほとんど同じだった。
「座って」と灯子は言い、お茶を二杯用意した。
名前は、白い方が松、薄紅の方が梅だった。双子の姉妹で、同じ日に同じ事故で亡くなった。姉が梅で、妹が松だという。
「成仏の順番で、揉めています」
梅が、きちんと背筋を伸ばして言った。
「私は松を先に送りたいんです。この子はまだ十七なのに、私のために引き留められるのは可哀想だから」
「逆です」
松がすかさず言った。口の形まで梅に似ていた。
「お姉ちゃんを先に送りたい。お姉ちゃんはずっと私の心配ばかりしてきたから、次の縁では自分のためだけに生きてほしい」
沈黙が落ちた。
灯子はお茶を一口飲んで、二人の顔を交互に見た。互いに相手を見ていない。前を向いたまま、それぞれの膝の上で手を握っている。全く同じ仕草で。
「つまり」灯子は言った。「二人とも、相手を先に成仏させたい、と」
「はい」
「はい」
また、そろった。
どうしようもなく胸が痛かった。これが愛情だ、と灯子は思った。互いを思いすぎて、互いに動けなくなっている。弁護士時代、対立する依頼人を何人も見てきたけれど、これほど優しい対立は初めてだった。
「どのくらいここに留まっているの」
「四十九日が過ぎても、決められなくて」梅が答えた。「お互いが折れないから」
「お姉ちゃんが頑固なんです」
「松が意地っ張りなの」
二人が同時に言い、一瞬だけ視線がぶつかり、すぐに逸れた。
灯子が縁結び規程集を引っ張り出したのは、それから一時間後のことだ。
二人に事情を話して少し待っていてもらい、奥の部屋で分厚い本を広げた。さだが整理してくれた規程集は第一巻から第十六巻まで、縁結び機能が廃止されるまでの全記録が詰まっている。灯子はその中の「転生に関する特例」の章を開いた。
指先で頁をめくっていくと、第十二巻の後半、少し黄ばんだ頁に小さな注釈が見つかった。
――同時転生の例外条項。
一定条件を満たす亡者が複数名存在する場合、縁結び担当者の申請により、同一家族への同時転生を認める場合がある。条件は三つ。一、同日同刻に亡くなった者同士であること。二、生前に深い縁で結ばれていた者同士であること。三、双方が合意すること。
灯子の指が止まった。
声を上げそうになるのをこらえた。双子。同じ日、同じ事故。十七年間、ずっと一緒だった姉妹。条件は全部、揃っている。
「さださん」廊下に向かって呼ぶと、丁寧な足音がした。
「なんですか、灯子さん」
「この条項、今でも使えますか」
さだが頁を覗き込んだ。白い眉がぴくりと動いた。
「……廃止前の条項ですねぇ。ただ、縁結び機能そのものは今、灯子さんが動かしてくれていますから、例外条項まで無効になったわけではないですよ。使えるかどうか、申請を出してみましょうか」
「出します」
灯子は既に筆を持っていた。
説明したのは、居間に戻ってからだ。
梅と松が並んで座っている。さっきと同じように前を向いて、互いに顔を見ていない。
「二人に聞きたいことがある」
灯子は書類を机に置いて、姉妹と向き合った。
「次の生で、また姉妹になれるとしたら」
二人の目が、初めて大きく開いた。
「それって」梅が声を漏らした。
「同じ家に、同じ日に生まれ直す方法がある。一緒に転生するの。双子として、とは限らないけど、同じ親のもとに、姉妹として」
静かだった。
秋の境界路地で、どこかの風鈴が一つだけ鳴った。
「でも」松が言った。「同時に転生するって、二人とも成仏するってことですよね」
「そう」
「お姉ちゃんを見届けてから、私も行こうと思ってたのに」
「松」梅が初めて妹の方を向いた。「私だって、あなたが安心してから行こうって」
二人の目が合った。
泣いていた。どちらからともなく泣き始めていた。十七年間ずっと隣にいた顔を、ようやくまっすぐ見て、泣いていた。
「ばかじゃないの」梅が言った。
「お姉ちゃんこそ」松が言った。
それから二人は笑った。全く同じ顔で、全く同じ声で、しゃくりあげながら笑った。
灯子は書類の続きを書きながら、视線だけ上げてその様子を見ていた。喉の奥が少しだけ、きつく締まる感じがした。弁護士として、勝訴した後もこんな気持ちにはならなかった。
申請書を閻魔丸に持っていったのは夕方だった。
奥の冥界執務室で、閻魔丸はちゃぶ台の上の書類を枕にして眠りかけていた。
「丸さん、起きてください。緊急です」
「ふぁ……灯子か。何だ、今いいところだったのに」
「夢の話は後で聞きます。これを通してください」
閻魔丸は渡された申請書をひっくり返し、表と裏を見て、また表を見た。片眉が上がった。
「同時転生の例外条項か。久しぶりに見たな、これ」
「条件は全部クリアしています。問題はないはずです」
「問題は……まあ、ないな」閻魔丸は少し考えるような顔をしてから、印鑑を取り出した。「ただ、転生先の選定に少し時間がかかる。明日の朝までには出来る」
「ありがとうございます」
「お前、こういう書類を見つけてくる嗅覚だけは本当に大したもんだ」
「褒め方が回りくどい」
閻魔丸は笑った。あの、節が抜けたような、からからとした笑い方で。
翌朝、梅と松に転生先が告げられた。
三つ年の離れた姉妹として、東の国の海沿いの街に生まれ直す。松が先に生まれ、梅が三年後に来る。
「逆じゃないですか、姉が後なんて」梅がむくれた。
「私が先に待ってるから、いいじゃないですか」松が笑った。
「待ちなさいよ。迷子になるでしょ、あなた」
「お姉ちゃんが迷子になるんでしょ、いつも」
また、二人の言葉が重なった。
灯子は縁側から二人が光の中に溶けていくのを見ていた。白と薄紅が混ざり合って、同じ色になっていく。それはまるで、初めから一つだったもののようだった。
隣に来た気配がした。
「きれいだね」
朔の声だった。いつの間にか縁側に腰を下ろして、同じ方向を見ていた。
「今日は依頼じゃないの」灯子が言うと、
「見てたら、なんとなく」と朔は答えた。
灯子は横目で彼を見た。光を追う横顔は、いつも通り、生きているのか死んでいるのか、分からない顔をしていた。
「朔くん」
「うん」
「あなたには、また会いたいと思う縁が、どこかにある?」
しばらく間があった。
境界路地の秋の風が、二人の間をゆっくりと通り抜けていった。
「あるかもしれない」朔はやっと言った。「でも、どこにあるか、まだわかんない」
灯子は何も言わなかった。ただ、その答えを、秋の光と一緒に受け取った。
どこかにある縁を、まだ知らない誰かが探している。この路地で、今日もそういう話が続いていく。