梅と松の件が片づいてから、三日が経った。
相談所の畳は、秋のような光を吸って金色に沈んでいる。現世の暦では六月のはずだが、境界路地には薄い夕暮れが居座って離れず、軒先の風鈴がほとんど音を立てなかった。
榊原灯子は縁側に腰を下ろし、煎茶の湯気をぼんやり眺めながら、領収書の束を膝に乗せていた。閻魔丸が「細かいことは任せた」と笑顔で押しつけていった経費精算である。「細かいこと」と本人は言うが、何百年分かわからない書類が混在していて、元号どころか年代判定すら怪しいものも交じっていた。
「さだ婆、これ何の支出ですか」
縁側の向こう、台所で麦茶を作っていた骨川さだが首だけ伸ばした。幽霊なので文字通り、首だけがするりと廊下まで出てくる。灯子はもう驚かない。
「あら、それは確か、三代前の獄卒頭が打ち上げで使った金子でございますよ」
「三代前。何年前ですか」
「さあ……百五十年ほど前でしょうか」
灯子は無言で書類の束を脇に押しやった。今日はもういい。
そのとき、相談所の引き戸が遠慮がちに叩かれた。
現世から来る客は、大抵この調子だ。なんとなく引き寄せられてきたものの踏み込んでよいか迷っている、という空気を纏っている。灯子は立ち上がり、土間へ降りた。
「はい、どうぞ」
引き戸を開けると、五十がらみの女性が立っていた。地味な割烹着に日焼けした顔。三丁目で八百屋を営む岡部テルだった。灯子も何度か野菜を買ったことがある。
「あの……相談ってできますか」
「どうぞ、お上がりください」
テルは畳に座るなり、手提げ袋を両手で抱え直した。
「変なこと言うと思われるかもしれないんですけど」と、彼女は口を開いた。「最近、うちの店の前に、知らない人が立ってるんです。朝の仕入れが終わって店を開ける時間くらいに。ほんの一瞬なんですけど、はっきり見えて、すうっと消える」
「それは……」
「幽霊かと思って。でも怖いとかじゃなくて、なんか、さびしそうにこっちを見てるんですよ」
灯子は茶を出しながら、さり気なく奥へ目をやった。さだが台所の柱の陰から、静かにこちらを見ていた。二人の視線が一瞬交差する。
「テルさん、その方の顔に見覚えは?」
「あるんです、それが」テルは膝の上で手を組んだ。「去年亡くなった、同業の山田さんっていう方に似てて。でも山田さんは埼玉の方だから、なんでうちの前に……って」
灯子は帳面に走り書きしながら、「承りました」とうなずいた。「こちらで確認してみます」
テルが帰ったあと、さだが音もなく縁側に座った。
「灯子さん、これで何人目でございますか」
「テルさんで四人目」
今週だけで、三丁目の住人から「見える」という問い合わせが相次いでいた。魚屋の親父、駄菓子屋のおばあちゃん、小学生の兄妹。全員が口を揃えて、「知らない人が一瞬見えて消えた」と言う。
「境界が、薄くなっているのでございましょうか」
さだの声に、いつものおっとりした響きがなかった。三百年この路地に居ついた古株幽霊が緊張を帯びると、空気そのものが重くなる気がした。
そのとき、奥の部屋から「おーい」と間延びした声がした。
閻魔丸だった。
障子を開けると、彼は文机の前に正座して書類を広げていた。普段なら書類を見た瞬間に「目が痛い」「腰が痛い」「なぜか眠い」と言い出す男が、今日は一枚一枚を丁寧に読んでいる。灯子は眉を寄せた。
「……丸さん、自分で書類読んでる」
「たまにはな」
「珍しい通り越して不吉です」
「失礼なことを言うな」
閻魔丸は書類を一枚、灯子の方へ差し向けた。墨で書かれた縦書きの文字が、整然と並んでいる。冥界本部からの定期報告書、と上部に記されていた。
「境界薄化指数、というものがある」と、彼はいつもの飄々とした口調を抑えて言った。「現世と冥界を隔てる境界の厚みを測る数値だ。通常は百前後で安定している。この三丁目の数値が、先月から下がり始めた」
「今は?」
「六十三」
灯子は数字を見つめた。意味はわからないが、四割近く減っているということは直感でわかった。
「六十を切ると、冥界の存在が現世に漏れ始める。四十を切ると……住人が触れる」
「触れる、って」
「幽霊に触れる。あるいは幽霊が物を動かせる。今は視覚だけだが、このまま下がれば感触も通るようになる」
灯子は腕を組んだ。「原因は」
「それを調べろという指示が、本部から来ている」
「指示が来た? 本部から?」
本部の名前が出るたびに、灯子はいい記憶を持てない。同時転生の例外条項を盾に梅と松の件を通したときも、本部は渋い顔をしていた。そこからわざわざ調査指示が来るというのは、それだけ事態が大きいということだろう。
「原因として考えられることは、いくつかある」閻魔丸は指を折った。「一つ、境界路地そのものの劣化。二つ、未成仏の霊が大量に溜まっている。三つ、意図的な干渉」
「意図的な干渉? 誰が」
閻魔丸はそこで初めて灯子の顔をまっすぐに見た。いつも笑っているか、どこか遠くを見ているかどちらかの目が、今は落ち着いた真剣さを持っていた。灯子は思わず、少し背筋を正した。
「わからん」
「……正直に言ったんですね」
「まあな」
珍しいこともあるものだ、と灯子は心の中で思いながら、報告書を手に取った。数字の並びを目で追っていくと、薄化が始まった時期が六週間前だとわかった。六週間前。相談所に何かあったか。灯子は記憶を掘り起こそうとして、一つの事実に気づく。
「藤代さんが来始めたの、いつでしたっけ」
さだが障子の外から静かに答えた。「六週間と少し前でございます」
偶然かもしれない。灯子は頭の中でそう注釈を入れながら、帳面に「藤代朔・来訪時期」と書き込んだ。彼が生きているのか死んでいるのか、今もってはっきりしない。毎週現れて、依頼とも雑談ともつかない話をして帰っていく。それだけで悪い人間だとは言えない。ただ、気になる。
「ぽん太」
縁側の外から「ひゃっ」という声がした。居眠りでもしていたらしい獄卒が、ばたばたと起き上がって土間に転げ込んでくる。
「な、なんでしょうかっ灯子さんっ」
「明日の朝、三丁目を一周してきて。幽霊らしきものが見えやすい場所を全部メモしてくること。ただし、現世の住人にはなるべく見えないようにして」
「わかりましたっ!……あの、なるべく、というのは完璧には無理ということで?」
「あなたが昨日通った商店街で、七人が悲鳴を上げた。〝なるべく〟の基準がわかりますよね」
「……はい」ぽん太は大きな体を縮こまらせた。「精進します」
夜が、境界路地に静かに降りてきた。
現世では六月の雨の匂いがするはずの夜だが、路地だけは乾いた古い木の匂いがする。灯子は縁側に出て、空を見上げた。星が出ていた。冥界の星は現世のものより少し大きく、少しだけ白い。
六十三。
その数字が、頭から離れない。
梅と松を送り出したとき、灯子は「縁を結ぶとはどういうことか」を少しわかったような気がした。それは単に人と人を繋げることではなく、その人が次へ進むための道を、一緒に探すことだと。
だが今、境界が揺らいでいる。
死者が現世に漏れ始め、現世の住人が戸惑い、誰かが関わっているかもしれない。縁を結ぶどころか、現世と冥界のあり方そのものが、ぎりぎりと軋み始めている音がする。
「灯子さん」
さだの声だった。
「今夜は早く休みなさい。明日は長い日になりますよ」
三百年生きた幽霊のその言葉には、予言めいた重みがあった。灯子は煎茶を飲み干し、静かに立ち上がった。
翌朝、ぽん太が血相を変えて戻ってきたのは、夜明けを少し過ぎた頃だった。
「灯子さんっ、大変です! 三丁目の地蔵通りのお地蔵様が、昨夜から喋り続けてるんです! しかも、誰かの名前を!」
灯子は帳面を掴み、下駄を突っかけた。
「何て言ってるの」
ぽん太は息を整えて、答えた。
「〝さかきばら〟って」
灯子の足が、土間の上で止まった。