朝の光が境界路地に差し込む頃、灯子はすでに相談所の縁側に座って、昨夜書き続けたメモを広げていた。「境界人」の記録から書き写した文言が、几帳面な文字でびっしりと並んでいる。朔が残していった「半分だけ」の言葉が、まだ喉の奥に引っかかっていた。
残りは閻魔丸に聞け。
それがどういう意味を持つのか、まだ灯子には見えていない。ただ、手の中にある情報の断片だけが、奇妙な熱を持って光っているような気がした。
「灯子さん、またそんな朝早くから」
さだが縁側に湯呑みをふたつ置いた。白い湯気がゆっくりと立ち上る。さだの輪郭は今朝も少し霞んで見えた。境界の薄化が続いているせいなのか、それともさだ自身の状態が変わってきているのか、灯子にはまだ判断がつかない。
「さださん、今朝は少し透けてますよ」
「あら、そうですか」
さだは自分の手のひらを見て、静かに目を細めた。透けた指の向こうに、縁側の木目がうっすらと見えている。それを眺めるさだの表情に、哀愁も恐怖もなかった。ただ、どこか遠くを見るような、穏やかな目をしていた。
「怖くないんですか」
「三百年もすれば、怖いより懐かしくなるものですよ」
灯子はその言葉を聞いて、少し黙った。三百年。その長さを自分の身に置いて想像しようとしたが、うまくできなかった。それだけの時間、この場所に縛られながら、さだは何を思って生きてきたのだろう。
湯呑みを両手で包みながら、灯子の頭の中でひとつの考えが形になっていった。
「さださん」
「はい」
「義助さんに、声を届けることができるかもしれません」
縁側が静かになった。さだが湯呑みを置く音だけが、小さく響いた。
「……声、ですか」
「境界の薄化が今一番強い時間帯を狙えば、音だけなら通るかもしれない。完全に姿を見せることはまだ無理でも、声の通路なら、私が作れると思う」
灯子は昨夜の資料から導き出した仮説を、できるだけ平静な声で説明した。境界薄化の周期、境界人としての自分の特性、そして声という振動が持つ縁への親和性。理屈は整っている。けれど成功するかどうかは、やってみなければわからなかった。
さだは長い間、何も言わなかった。
「義助さんはもう、八十五になられます」
「知ってます」
「耄碌されて、わたしのことなど忘れておられるかもしれない」
「忘れてないと思います」
灯子が言い切ると、さだが顔を上げた。
「根拠は」
「直感です」
さだが小さく笑った。三百年を生きた幽霊の笑いとは思えない、少女のような、照れた笑いだった。
「弁護士さんが直感なんて、らしくありませんねえ」
「私は今、弁護士じゃなくて縁結び師です」
その日の昼過ぎ、境界路地の一番奥、ちょうど冥界と現世の空気が混じり合う場所に、灯子は小さな準備を整えた。ぽん太が怖々と手伝いを申し出て、何度か道具を落としながらも、指示された通りに古い香炉と結び文を並べた。
「ぽん太、緊張しなくていいよ」
「緊張してないっす。汗かいてるだけっす」
「同じです」
閻魔丸は相談所の入り口に腕を組んで立ち、何も言わずに見ていた。灯子が昨夜の仮説を話したとき、閻魔丸はただ「ほほう」と言っただけだった。反対もしなかったし、後押しもしなかった。ただその目が、いつもより少しだけ真剣だった気がした。
現世側、三丁目の外れにある小さな平屋。義助がひとりで住んでいる家。灯子は一度だけ遠目に見たことがある。洗濯物が風に揺れていた、日当たりの良い縁側があった。
境界の薄化が最も強くなる時間は、資料によれば「夕刻の寸前、影が一番長く伸びる頃」だった。今はちょうど、その時間に近づいている。
「さださん、準備できましたか」
さだは香炉の前に座っていた。いつもの着物姿で、いつもより少し背筋が伸びていた。湯呑みを持っているときの所作とはまるで違う、凛とした佇まいだった。
「できております」
「声を出したいことがあれば、そのまま話しかけてください。私が通路を開いている間だけ、届くはずです。長くは続けられないので」
「わかりました」
灯子は目を閉じた。境界人としての感覚を、意識的に広げていく。現世と冥界の空気が重なっている場所は、指先が少しだけ痺れるような感触がある。その感触を頼りに、灯子は「通路」を探した。壁の薄い部分、縁の残滓が集まっている場所、そこに力を集中させていく。
体の奥が熱くなった。半死半生のこの身体が、どちらでもある状態のまま、両側に手を伸ばす感覚。弁護士時代に法廷で感じた、論理の糸が一本に繋がる瞬間に似ていた。
「……開いた」
灯子が小さく言った次の瞬間、路地に不思議な静けさが満ちた。風が止んだわけではない。鳥の声も聞こえている。ただ、空気の質が変わった。現世と冥界の音が、同じ場所に重なって聞こえるような感覚だった。
そして、遠く、かすかに、老人の寝息のような音が届いた。
ぽん太が「あ」と声を上げて、灯子に睨まれて口を押えた。
さだが、静かに息を吸った。
「……義助さん」
それだけだった。たった三文字。でも、三百年分の時間が詰まった声だった。
しばらく、何も起きなかった。
灯子の手が震え始めた。通路を開けておくことは思った以上に力を使う。額に汗が滲んだ。閉じてしまいたい気持ちを、奥歯を噛んで堪えた。
そのとき、現世の音の中から、しゃがれた声が届いた。
「……あの人の声がする」
義助だった。かすれて、細くて、でも確かに生きている人間の声だった。
「夢と同じだ……あの人の声と、同じだ」
ぽん太の目から、涙がぼろぼろとこぼれ始めた。閻魔丸が何かを言おうとして、黙った。灯子は通路を開けたまま、唇を一文字に結んだ。
さだは、震えていた。
三百年間、一度も届かなかった声。一度も触れられなかった存在。夢の中でだけ繰り返し呼んだ名前が、今この瞬間、本物の耳に届いている。
「義助さん」
さだがもう一度呼んだ。今度は少し、声が揺れていた。
「わたしですよ。覚えておいでですか」
長い沈黙。灯子の指先が痺れる。通路が揺らぎかけた。
「……さだ、か」
義助の声が、確かにそう言った。
その瞬間、さだの輪郭がはっきりした。霞んでいた姿が、今だけ、鮮明になった。灯子はそれを目の端で捉えながら、通路を必死に繋ぎ止めた。
「喜助さん」
さだが言った。
灯子は一瞬、耳を疑った。さだがそれまで、一度もその名前を口にしたことはなかった。「義助さん」ではなく、「喜助さん」。どういう意味を持つ名前なのか、灯子には今はまだわからない。ただ、さだの声の中に、三百年のすべてが込められているような気がした。
「喜助さん、長いことお待たせしました」
義助の、震える息遣いが届いた。泣いているのか、笑っているのか、判然としない声だった。
灯子の手が限界に達した。通路が閉じ、空気が元の温度に戻った。境界路地に、夕刻の静けさが戻ってくる。
さだは香炉の前に座ったまま、しばらく動かなかった。肩が小さく揺れている。泣いているのだと、灯子は思った。三百年間、この人が泣くのを見たことがなかった。
灯子は何も言わなかった。ぽん太も、珍しく黙っていた。
閻魔丸だけが、ゆっくりと相談所の中へ戻りながら、誰にでもなく小さく言った。
「喜助、ねえ」
その声には、灯子が初めて聞く種類の重さがあった。まるで、古い記憶に触れた人間の声のように。
灯子は閻魔丸の背中を見つめた。「残りは閻魔丸に聞け」という朔の言葉が、今になって別の光を帯びて聞こえてきた。喜助という名前と、閻魔丸の沈黙と、三百年という時間。それらがひとつの線で繋がりかけている気がした。
まだ、見えない。でも確かに、何かが動き始めていた。