朝の境界路地は、ひどく静かだった。
昨夜の地蔵の件を引きずったまま眠れなかった灯子は、夜明け前から相談所の古い資料棚を漁っていた。閻魔丸が溜め込んだまま整理もせずにある書類の山は、触れるたびに埃が舞って鼻の奥を刺す。それでも灯子の手は止まらなかった。
「榊原」と叫んだあの地蔵の顔が、まだ瞼の裏に張り付いている。
石の口が動いた。それだけでも十分に異常なのに、呼んだ名前が自分のものだったという事実が、何かの鍵穴に合う予感を灯子に与えていた。弁護士時代、証拠の断片がひとつの輪郭を結ぼうとするとき、決まってこういう感覚が来た。
棚の最下段、黴の匂いが染みついた木箱の中に、それはあった。
革表紙の台帳。背表紙に墨書きで「境界管理分類記録・第七改訂版」とある。ページを繰ると、冥界の存在分類が細かく列挙されていた。幽霊、生者、半死半生体、憑依体、使役霊——そして、ずいぶんページを送ったところに、小さな字でこう書かれていた。
〈境界人 Boundary Walker〉
灯子は台帳を膝に抱え直し、狭い文字を目で追った。
曰く、境界人とは生死の分類に属さない特殊な存在である。かつて冥界縁結び機能が運用されていた時代、現世と冥界の橋渡しを担った「縁結び係」の血筋に生まれる。生者のように老いるが、冥界の気配を纏う。境界の薄化が起きた際、その周辺に自然と引き寄せられる習性がある——。
灯子の指が止まった。
引き寄せられる。
脳の中で何かがかちりと嵌まる音がした。
―――
「朔さんが最初に来たのは、いつでしたっけ」
出勤してきた骨川さだに声をかけると、彼女は帳場の埃を払いながら少し考える素振りをした。白髪を丁寧に纏め、藍染めの割烹着を着た姿は、どこからどう見ても近所のおばあちゃんだ。ただし三百年生きている。
「境界薄化の記録が最初に出た週の、三日後でございましたよ。わたくし、帳面に書いておりますから」
さだが差し出した薄い帳面には、几帳面な文字で来訪者の日付が記されていた。指でなぞると確かに、薄化指数の変動記録と朔の来訪日が、ほぼ完全に連動している。
「やっぱり」
「何かお気づきになりましたか」
「仮説の段階ですけど」と灯子は台帳を差し出した。さだは老眼鏡を鼻先にかけてしばらく読み、それからゆっくり眉を上げた。
「まあ。これは——」
「境界人の項目、読みましたよね。引き寄せられる習性がある、って」
「ええ」
「朔さんが来るたびに境界が薄くなるんじゃなくて、境界が薄くなりかけるたびに朔さんが来る。順序が逆なんです」
さだは帳面と台帳を見比べて、しばらく黙っていた。縁側から朝の光が斜めに差し込み、漂う埃を金色に照らしている。
「それが本当なら」とさだはゆっくり言った。「あの子は、薄化を起こしているのではなく、薄化に呼ばれているということになりますねえ」
「それに」と灯子は続けた。「朔さんの持ち込む話って、毎回誰かと誰かの縁に関係しているでしょう。離ればなれの親子とか、会いそびれた友人とか。本人は雑談みたいに話すけど、後から振り返るとぜんぶ縁結びの案件に繋がってる」
さだがしみじみと頷く。
「言われてみれば、確かに」
「縁結び係の記録と照らし合わせたいんですけど、そっちの資料ってどこですか」
「閻魔様の執務室の、床下でございます」
「床下」
「三百年、整理しておりませんので」
灯子は額に手を当てた。
―――
昼過ぎ、引き戸が開く音がした。
「こんにちは」
藤代朔は今日も飄々とした顔で入ってきた。くたびれたジャケットに、季節感のない薄手のシャツ。いつ来ても微妙に時代のずれた格好をしている男だ。二十代後半のように見えるが、目の奥だけがどこか古い。
「ちょうどよかった」
灯子は立ち上がり、向かいの椅子を引いた。「座ってください」
「いつもより積極的ですね。何かありました?」と朔は笑いながら腰を下ろした。
「聞きたいことがあります」
「聞くのは灯子さんのほうですか。珍しい」
灯子は台帳を開き、境界人の項目を朔の前に置いた。朔の目がそこに落ちる。一秒の間があった。ほんの一秒だったが、灯子はそれを見逃さなかった。
「朔さんって、生きてるんですか。それとも死んでるんですか」
「むずかしい質問ですね」と朔は笑った。「哲学的な」
「ごまかさないでください」
「ごまかしてないですよ。本当にむずかしくて」
「境界薄化の記録と、あなたの来訪日が一致してます」と灯子は帳面を並べた。「それに、あなたが持ち込む話は毎回、誰かの縁に関係している。縁結び係の記録と照らし合わせてみると——」
「照らし合わせたんですか」
「閻魔丸さんの床下から引っ張り出しました。三時間かかりました」
朔の笑みが、すこし固まった。
灯子は資料を広げた。縁結び係が廃止される前の記録には、現世と冥界の境に立って双方の縁の綻びを感知し、自然に修復へと導く存在のことが書かれていた。彼らは依頼を受けるのではなく、縁の歪みに誘われて動く。意識的にではなく、体が勝手に。
「あなたの行動パターンとまるで一緒です」
朔は返事をしなかった。
窓の外で、どこかの軒先の風鈴が鳴った。夏にはまだ早いのに、境界路地はいつも季節がひとつ先を行く。
「藤代さん」
灯子は声のトーンを落とした。
「あなたが境界人なら、今起きている薄化とも関係があるはずです。何か知っているなら、教えてほしい。このままだと三丁目の住人に影響が出る。もう出始めてる」
「知ってます」と朔は静かに言った。
はじめて、笑っていなかった。
灯子はそれが意外で、思わず言葉を止めた。朔がこんな顔をするのを見たのは初めてだった。冗談とも世間話ともつかない話を持ち込んでは飄々と帰っていく彼が、今は椅子の上で少し重くなって見えた。
「知っているなら」
「灯子さん」
朔が顔を上げた。その目は、笑っていなかった。台帳の文字でも資料の数字でもなく、灯子の目をまっすぐに見ていた。
「深入りしないでください」
静かで、真剣な声だった。脅しではなかった。警告でもなかった。もっと個人的な何か——心配、あるいは懇願に近い響きだった。
「なぜ」
「あなたは半死半生だから」と朔は言った。「境界人の事情に踏み込むと、あなた自身の存在の輪郭が、揺らぎます」
灯子は一瞬、自分の手のひらを見た。現世にいるときは確かな重みがある。冥界に踏み込むと少し透ける。その感覚をあらためて意識すると、足元が薄い氷の上にあるような気がした。
「それでも」と灯子は言った。「放っておけない」
朔は少し目を伏せた。
「知ってます」
小さく、笑った。今度は目も笑っていた。ただし、さっきまでの飄々とした笑いではなく、もっと疲れたような、久しぶりに何かを思い出したような顔だった。
「半分だけ、教えます」
「半分って」
「残り半分は、閻魔丸さんに聞いてください。あの人は知ってるはずだから」
そのとき、奥の執務室から巨大な体躯が扉を突き破る勢いで出てきた。
「灯子ーっ、書類がまた増えたんだけど俺どうすればいいと思うーっ」
閻魔丸だった。目に涙を浮かべて書類の束を抱えている。
朔が吹き出した。灯子は額を押さえた。
窓の外の風鈴が、また一度、鳴った。
閻魔丸が知っている。朔の言葉が、灯子の胸の中で静かに沈んでいった。あの天然の冥界最高権力者が、何かを知っていて、黙っている。
それは、想像していたよりずっと、大きな話の予感がした。