十月の昼下がり、三丁目の空は抜けるように青かった。
灯子が境界路地から現世側へ踏み出すたびに、身体の輪郭がわずかに揺らぐような感覚がある。半死半生の自分が現世に立つと、足の裏に地面の固さをほとんど感じない。それでも光は見えるし、音は聞こえる。ただ、この世のものすべてが少しだけ遠い。水中で目を開けたときのような、淡い隔たりとともに世界が広がっていた。
商店街のアーケードをくぐる。
八百屋のおじさんが「さつまいも三袋で五百円!」と怒鳴るように呼び込みをしていて、その声は灯子の胸をすり抜けていった。小学生の集団が自転車置き場のあたりで笑い転げている。理由もわからないのに、胸が痛くなった。
懐かしい、と灯子は思った。
懐かしいというのはおかしい。灯子はこの三丁目に縁があるわけではない。生まれは神奈川で、弁護士として働いていたのは都心のオフィスだ。それなのに、日向の匂いと醤油の香りと古い木造家屋の軒先が視界に重なるとき、胸の奥でなにかが疼く。
これが、郷愁というものか。
自分が生きていた世界の手触りを、灯子はようやく惜しいと思い始めていた。
足を止めたのは、豆腐屋の前だった。白いのれんが秋風に揺れている。老婆が一丁買って、布の袋に大事そうに入れて去っていく。その背中を見送りながら、灯子はしばらく動けなかった。
あの人には今夜の夕食がある。帰る家がある。湯気の立つ豆腐を食べる、明日がある。
私には。
首を振って、灯子は歩き出した。感傷に浸っている場合ではない。今日の目的は田辺誠への接触だ。田辺宗一郎の甥であり、遺言書を改ざんした疑いのある人物。昨日の調査で灯子はその痕跡をつかんだ。問題は、幽霊の身では当人と直接会話ができないことだ。
声は届かない。触れることもできない。
では、どうするか。
灯子が前日から温めていた案は、ひどく地味なものだった。田辺誠が通っている喫茶店を突き止め、彼の日常的な行動パターンを把握する。そのうえで、何らかの形で現世の協力者を介して揺さぶりをかける。弁護士時代に鍛えた尾行と情報収集の技術を、幽霊として活用するつもりだった。
地図で確認した田辺アパートの方向へ向かう。三丁目の路地は細く入り組んでいて、曲がるたびに景色が変わる。古い郵便ポスト。缶コーヒーの自動販売機。塀にへばりつくように咲いた紫苑の花。
そのとき、声をかけられた。
「あの、すみません」
灯子は反射的に振り向いた。そしてそのまま固まった。
半透明ではない。だが確かにそこに立っているのに、その青年はどこか、この世の色と微妙にズレているように見えた。二十代半ばだろうか。くたびれた紺のジャケットに、古書のような黄ばんだ色のマフラー。瞳は静かで、落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
見知らぬ他人に話しかけられる経験を、灯子はもうずいぶんしていなかった。半幽霊の自分が生者に認識されることは、まずない。
「…… 私に、声をかけてますか」
「あなた以外に誰がいるんですか、この路地」
青年は困ったように笑った。笑い方が、少し奇妙だった。口元は笑っているのに、目の奥がちっとも笑っていない。笑顔の形だけを借りてきたような、そんな表情だった。
「灯子さんですよね。境界路地の相談所の」
「知ってるの、あなた」
「ええ、まあ。藤代朔といいます」
藤代朔。その名前が、灯子の記憶のどこにも引っかからない。骨川さだが以前「最近また来るようになったお客さん」と言っていたような気もするが、灯子が相談所に来てからまだ顔を合わせたことはなかった。
「どこで知ったんですか、私のことを」
「さだばあさんから少し。それと、なんとなく」
なんとなく、という答えが気になった。しかし朔の表情には悪意のかけらもなく、かといって必要以上の親しみもない。適切な距離を保ちながら、こちらを観察している、そんな気配があった。
「田辺さんのアパートを探してるんですよね」
灯子は眉を上げた。
「なぜ知ってる」
「この辺をよく歩くので。地図を見ながら歩いてたでしょう、さっきから」
なるほど、と灯子は思った。理屈は通っている。だが、それだけで「田辺さんのアパート」とピンポイントで言い当てられるものではない。
「田辺誠さんのアパートなら知ってますよ」と朔は続けた。「ここからだと少し裏に入ったところで。二丁目との境目あたりにある古い二階建てで、一階の軒下に自転車が五台くらい並んでる建物です」
「……どうして知ってるの」
「近所に住んでるので」
さらっと言う。
灯子は朔をまじまじと見た。この青年は生きているのか、死んでいるのか。皮膚の色は生者に近い。しかし呼吸の音が聞こえない。かといって幽霊特有の希薄さもない。ちょうど境界線の上に立っているような、そんな存在感だった。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなた、生きてる人ですか」
朔は少し間を置いた。それから、先ほどと同じ口元だけの笑みを浮かべた。
「難しい質問ですね」
「難しくないでしょう。生きてるか死んでるか、どっちかです」
「たいていのことはそうなんですが」朔はマフラーの端を指先でいじりながら言った。「たまに、どっちとも言えないことがあるじゃないですか」
灯子は返答に詰まった。他でもない、自分がそのカテゴリに属しているからだ。
「……参考にはなりませんが、私がそういう立場なんで」
「知ってます」
「知ってるの」
「なんとなく」
また、その言葉だ。灯子は小さく息をついた。
警戒すべきだろうか。しかしこの青年が何かを害そうとしている気配は、微塵も感じられない。むしろどこか、途方に暮れた犬のような雰囲気がある。捨てられたわけでもないが、帰る場所が曖昧になってしまった犬のような。
「田辺のアパートまで案内してもらえますか」
灯子が言うと、朔は少し驚いたような顔をした。それから静かにうなずいた。
「いいですよ」
二人は並んで路地を歩き始めた。朔は慣れた足取りで細い道を進む。途中、酒屋の前で立ち止まって空を見上げた。
「三丁目って、秋になると空が広くなる気がしませんか」
「……そういうことを感じる余裕は今ない」
「そうですか」
朔はそれ以上何も言わなかった。灯子は彼の横顔を盗み見た。静かすぎる。淡々としすぎている。それなのに、そこにいる感触はある。
やがて路地が開けると、古い二階建ての木造アパートが見えてきた。錆びた鉄の階段。軒下に並んだ自転車は、言われた通り五台だった。表札には「田辺荘」と手書きで書かれている。
「ここです」
「ありがとう」
灯子がアパートを見上げていると、二階の窓の明かりが揺れた。人がいる。おそらく田辺誠だ。幽霊には壁を通り抜ける能力があるが、それを使って部屋に踏み込んでも、声は届かない。
手が出せない。それが灯子には、この上なく歯がゆかった。
「何かお役に立てることがあれば」と朔が言った。
灯子は振り返った。
「あなた、ここに何しに来たの。私を案内するために?」
「いいえ」朔は少し考えてから言った。「相談所に行こうとしてたんです、今日も。でも途中で灯子さんに会ったので」
「今日も?」
「ええ。毎週行ってるので」
毎週。さだが言っていた「よく来る客」というのは、この青年のことだったのか。
「何を相談しに行くの」
「それは、相談所で話すことなので」
すっぱりと言われた。灯子は少し笑いたくなった。筋は通っている。
「そうですね、失礼しました」
「いえ」
朔はポケットに手を入れて、ゆっくりとアパートとは反対方向へ歩き始めた。
「また相談所で」
その背中を見送りながら、灯子はしばらく動けなかった。
あの青年は何者なのか。この三丁目の近所に住んでいて、毎週相談所に通っていて、半幽霊の灯子に自然に話しかけてきた。それだけで十分に不思議だったが、何より引っかかるのは、朔の目の奥に揺れていたものだ。
何かを、探している。
あるいは、何かを待っている。
風が吹いて、紫苑の花びらが一枚、灯子の足元に落ちた。拾おうとして、手が空を切った。そうだった。自分の手には、もう触れられないものがある。
田辺荘の二階の明かりが、また揺れた。
灯子は唇を引き結んで、アパートを見上げた。まだ諦めるには早い。手が届かないなら、届く方法を探すだけだ。それが弁護士という仕事に、自分が二十代の全てを費やして叩き込まれた唯一の信念だった。
そして今は、もう一つある。
縁は、偶然ではないのかもしれない、と。
藤代朔という名前が、灯子の頭の片隅に小さな棘のように残った。