三丁目の細い路地は、昼間でも光の届かない場所がある。古い建物が肩を寄せ合い、隙間から落ちる空だけが空色の切れ端のように揺れている。灯子はそこに立って、手帳の最後のページを見つめていた。書いてあるのはたった一行だ。
*田辺誠、三十四歳。借金、六百万。*
朔が教えてくれたのは昨夜のことだった。
「あの人、たぶん知ってる」と彼は言った。路地の角に半分溶け込むように立って、灯子のほうを見もせずに。「三年前から出入り金融に追われてる。表の郵便受けに赤いハガキが三枚重なってたのを、俺は何度も見てる」
「なぜ黙ってたの」
「聞かれてなかったから」
それだけ言って朔は霧に混じるように消えた。ため息をつく間もなかった。
今日、灯子は改めてアパートの郵便受けを確認した。朔の言った通り、赤い督促状の束が口から溢れそうになっていた。宛名は田辺誠。差出人の欄に書かれた会社名は、灯子が弁護士時代に何度か相手方として出くわしたことのある、悪名高い貸金業者のものだった。
胸の奥でなにかが軋んだ。
*そういうことか。*
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相談所に戻ると、ぽん太が玄関の段差に座り込んで泣いていた。
「どうしたの」
「お客さんに怒鳴られました」鼻をすする声がずるずると情けない。「『でかい図体して声がでかすぎる、怖い』って言われて……俺、そんなつもりじゃ……」
「声量の調節は次の課題ね。今日はとりあえずどいて」
ぽん太を踏み越えて土間に入ると、骨川さだが奥の座敷でお茶を注いでいた。向かいには田辺翁が座っている。生前と変わらぬ丸い背中、白髪まじりの頭。だがその横顔には、灯子が最初に会ったときにはなかった疲弊の色が滲んでいた。待ち続けることの、静かな消耗だ。
「田辺さん」と灯子は座布団に膝をついた。「誠さんのこと、少しわかりました。聞いてもらえますか」
翁は茶碗を置いた。音がしなかった。
「……聞かせてくれるかい」
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灯子は調べてきたことを、順を追って話した。誠が借金を抱えたのは三年前、経営していた小さな印刷所が取引先の倒産に巻き込まれたのが始まりだということ。連帯保証人になっていたために自分だけでは返しきれない額を背負い、サラ金から消費者金融へと転がり、最終的には出入り金融の手に渡ったこと。
遺言書の書き換えは、その返済に充てるためだったと思われること。
翁はずっと黙って聞いていた。さだが袖で目頭を押さえているのが視界の端に映った。
「……あの子が印刷所をたたんだのは知っとった」翁はようやく口を開いた。「だが、そんなに追い詰められとったとは」
「知らせたくなかったんだと思います。心配させたくなかったんでしょう」
「馬鹿な子だ」翁は言った。叱責ではなく、嘆息だった。深い、深い息だった。「なんで言わんかったんだ。言うてくれたら一緒に考えられたのに」
「田辺さん」灯子は声が震えそうになるのを堪えた。「誠さんは今も借金の返済を続けています。相談所が確認できた範囲では、毎月少しずつ、確実に返しています。遺言書を書き換えたのは許されることじゃない。でも彼は、逃げてはいません」
しばらく沈黙があった。
蛍光灯の光が古い天井に滲んで、どこかでぽん太がまた鼻をすする音がした。
「……許す、ちゅうことができるかな、わしに」
翁の声は小さかった。問いというよりは、自分自身への呟きだった。
灯子は膝の上で手を握った。弁護士のときなら、ここで感情を切り離した。依頼人の利益を最大化するための論理だけを選ぶ。それが仕事だった。
でも今は違う。
「できます」と灯子は言った。「田辺さん、あなたは誠さんのことをずっと心配してここにいる。それがもう答えじゃないですか」
翁がゆっくりこちらを向いた。
「あんた、弁護士さんだったんだって、さだばあさんから聞いた」
「はい」
「弁護士さんてのは、いつもそんなふうに人の背中を押すもんかい」
「……いいえ」灯子は苦笑した。「こんなことは初めてです」
翁が笑った。皺だらけの顔が、一気にほぐれた。
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その日の夕暮れどき、相談所の縁側に翁と灯子は並んで座った。冥界の空は現世とわずかにズレて流れるせいか、夕陽がことのほか長く引き延ばされる。橙と紫が滲み合う色の中に、三丁目の屋根の形が浮かんでいた。
「誠に、伝えてやってくれんか」と翁は言った。「ちゃんと飯を食え、って」
「伝えます」
「借金は、返しきれんかったとしても、それがあの子の全部じゃない、ってことも」
「伝えます」
「あと……父さんはずっとお前の味方だ、って」
灯子は答えられなかった。喉の奥に何かが詰まった。こんな感覚は久しぶりだった。最後にいつこんなふうに胸が詰まったか、もう思い出せないほど昔のことのような気がした。
翁の輪郭が、じわりと光に溶け始めていた。成仏、というものをこれまで二度ほど見ていたが、いつも突然だった。今回は違った。ゆっくりと、本人が納得したように、時間をかけて翁は光の中に混じっていった。
最後に翁は笑っていた。
「……ええ相談所だ」
その声だけが少し遅れて消えた。
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縁側に一人残された灯子は、夕空を見上げたまま動けなかった。
背後でさだが「よう頑張りましたねえ」とやわらかく言い、ぽん太が「俺も感動しました!」と盛大に泣き崩れる音がした。どこか遠くで閻魔丸が「書類どこ置いたっけ〜」とのんきに独り言を言っているのも聞こえた。
おかしくて、少しだけ笑えた。
*意味がある。*
そう思った。こんなふうに思ったのは、いつぶりだろう。弁護士を続けていた頃、勝訴の瞬間ですら感じなかった何かが、今、胸の真ん中にある。
縁を繋ぐということは、生きている人間だけの話じゃないのかもしれない。死んでいる人も、まだ決着のついていない人も、みんな誰かと繋がったまま、その重さを抱えて存在している。それを解きほぐす仕事が、ここにはある。
「灯子さん」
振り返ると、路地の入り口に朔が立っていた。いつの間に来たのか、影のように静かにそこにいる。
「……ありがとう、昨日の情報」
「別に」朔は目を逸らした。「うまくいったんですね」
「うまくいった」
朔が何か言いかけて、やめた。口を開きかけた唇が、そのまま一文字に結ばれる。灯子はそれを見ながら、この青年のことをまだ何も知らないと思った。なぜ毎週ここへ来るのか。なぜ三丁目のことをあんなに細かく知っているのか。そして、彼自身は何を抱えているのか。
「朔くん」
「何ですか」
「あなたも、いつかちゃんと話してくれる?」
朔は少しの間、黙っていた。夕空の色が変わった。橙が消えて、深い藍に変わっていく境目で、彼の横顔はひどく静かだった。
「……いつか、ね」
それだけ言って、朔はまた路地の暗がりに消えた。溶けるように、迷うように、曖昧に。
灯子はその場所をしばらく見ていた。
いつか、か。
その言葉が、棘のように、また胸に刺さった。