朝の霧は、いつにも増して重かった。

 窓の外に広がるはずの山の稜線は完全に溶け消え、霧積館は白い無の中に浮かぶ箱舟のように、どこへも続かない場所に留まり続けていた。透はベッドの上で目を開けたまま、天井のシミを数えた。一つ、二つ、三つ。しかし四つ目を数えた瞬間、それが自分の記憶なのかどうか、分からなくなった。このシミを以前にも数えたことがある、という感覚が生まれたが、その「以前」がいつのことなのか、どうしても掴めない。

 記録室で礼子に見せてもらった書類のことを、透はまだ引きずっていた。B氏。名前を奪われた男の記録。他者の記憶を吸収し続け、最後には自分の名前さえ答えられなくなった人間の末路。ページをめくる礼子の指が冷静に動くたびに、透は自分の未来を見せられているような気がしてならなかった。

 食堂へ降りると、蛍がいた。

 道上蛍は、いつも少し遅れて食事を取る。他の患者たちが三々五々に席を埋め始める頃、ひとり隅のテーブルで白湯だけを飲んでいることが多かった。今日もそうだった。ただ、違うことがひとつあった。蛍の視線が、透に向けられていた。

 引き寄せられるように、透はその席へ近づいた。

「座ってもいいか」

 蛍は答えなかった。しかし、向かいの椅子を爪先で軽く押し出した。透はそれを承諾と受け取って腰を下ろした。

 しばらく、沈黙が続いた。霧積館の朝には似合いの沈黙だった。遠くで食器の触れ合う音がして、誰かが笑って、それがまた遠ざかっていった。蛍は白湯の湯気をじっと見つめていた。その横顔は、彫刻のように動かなかった。

「礼子さんに言われたのか」

 蛍が先に口を開いた。声は低く、感情の起伏に乏しかった。透は少し驚いて、正直に答えた。

「話を聞くよう言われた。でも、強制じゃない」

「知ってる」と蛍は言った。「だから来た」

 透はそれ以上何も言わず、蛍の次の言葉を待った。急かすことは、何かを壊す気がした。霧が窓ガラスに滲んで、細かな水滴を作っていた。

「僕には」と蛍は言った。「三歳から九歳までの記憶がない」

 無感情な声だった。事実を読み上げるような、それでいてどこか、長い年月をかけてその言葉を磨き続けてきたような、奇妙な質感があった。

「全部?」と透は聞いた。

「全部。ひとかけらもない」

 蛍はカップを両手で包んだ。細い指が白い陶器に吸い付くようにして、その手が微かに震えているのに、透は気づかないふりをした。

「消えたのか、それとも……」

「消した、んだと思う」と蛍は言った。「自分で。ただ、それも確かじゃない。消したという記憶自体が、ない」

 透は息を飲んだ。

 道上蛍の能力は「消去」だと聞いていた。他者の記憶に触れ、それを根こそぎ引き剥がすことができる。誰かに望まれて消すこともあれば、触れた瞬間に意図せず消えることもある、と霞が教えてくれたことがあった。しかし今、蛍が言っていることはそれとは違う次元の話だった。能力の矛先が、自分自身に向かったのだ。

「何かがあったんだろうな、その六年間に」と透は言った。

「分からない」

「怖くないか」

 蛍はそこで初めて、透の目を真っ直ぐに見た。その目は暗い色をしていた。感情がない、というのではなかった。感情があまりにも多すぎて、もう何も表情に滲み出なくなってしまったような、そういう目だった。

「怖い、という感情が正しいのかどうか、自分では判断できない」と蛍は言った。「失われた記憶の中に、たぶん、怖いと感じた出来事がある。でもその出来事ごと、消えてしまってるから」

 透は思わず自分の胸に手を当てた。

 逆だ、と思った。自分は記憶が増えすぎて溺れそうになっている。蛍は記憶が根こそぎ奪われて、空洞の中に立っている。それなのに、二人の抱える欠落の形は、どこかで似ていた。持ちすぎること、持たなすぎること。どちらも、「自分」という輪郭を曖昧にする。

「消去した相手のことは」と透は慎重に聞いた。「覚えているか」

「覚えていない」と蛍はすぐに答えた。「誰かの記憶を消した後、僕はその人が誰なのかも分からなくなる。顔も、名前も、消えていく。だから、自分がどれだけの数の人に触れたのか、それすらも分からない」

 沈黙が落ちた。透はその言葉を、ゆっくりと胸の中で転がした。消した相手ごと、消える。それはある意味では、加害者が記憶の中で永遠に追跡されないということを意味した。しかし同時に、蛍自身が自分の行為の全貌を知る術を永遠に失うということでもあった。罪の重さを測る天秤が、最初から存在しない。

「それで」と透は言った。「なぜ今日、僕に話してくれた」

 蛍は白湯を一口飲んだ。湯気が薄く広がって、消えた。

「礼子さんが言った。あんたは記録を作ろうとしている。三島さんに何があったのかを」

「ああ」

「だったら、僕の話を記録に入れておく必要があると思った」蛍の声は静かだった。「僕には記憶の空白がある。その空白の中に、何があったのかを、僕自身は証明できない。それだけでも、分かっておいてほしかった」

 透は頷いた。ただ頷くことしかできなかった。蛍の言葉には、告白の純粋さがあった。弁解でも懺悔でもなく、ただ事実を手渡すような。

 そして蛍は席を立とうとした。

 椅子を引いて、薄い体を起こして、そのまま立ち去るかと思ったとき、蛍は振り返らずに言った。

「三島さんに気をつけて」

 透は反射的に聞き返した。

「三島さんは、亡くなってる」

「知ってる」

 蛍の声には、何の揺らぎもなかった。

「だから言ってる」

 それだけを言い残して、蛍は食堂を出た。霧の中へ消えていくように、音もなく、廊下の向こうへと溶けていった。

 透はしばらくその場に座ったまま動けなかった。白湯の温もりが残るカップが、蛍の席に置き去りにされていた。透はそれを見つめながら、「三島さんに気をつけて」という言葉を何度も頭の中で繰り返した。

 三島は死んでいる。しかし蛍は、だからこそ気をつけろと言った。

 死者に気をつける、とはどういうことか。

 透は自分の中に既にある、三島の記憶の断片のことを思った。夢の中で何度も再生される映像。廊下の端に立つ影。窓の外を見つめる横顔。それらは透が意図して吸収したわけではなかった。気づけばそこにあって、自分の記憶と区別がつかなくなりつつあった。

 三島はもう存在しない。しかし三島の記憶は、透の中に生きている。

 そして蛍の警告は、もしかしたらそのことを指しているのではないか。死者の記憶に、引っ張られるな、と。或いは——死者の記憶が、まだ何かを望んでいる、と。

 窓の外の霧が、わずかに揺れた。

 透は立ち上がり、拳を軽く握った。蛍の話を、どこかへ書き留めておかなければならないと思った。記録係は礼子だが、透自身の中に積み重なる証言の地層は、誰にも代わりに掘れない。

 廊下へ出ると、霧積館の冷気が首筋を撫でた。遠くで誰かが扉を閉める音がして、また静寂が戻った。

 透は一歩を踏み出しながら、蛍の目を思い出していた。暗い色をした、感情が多すぎてもう何も滲まなくなってしまった目。自分の六年間の空白を「分からない」とだけ言い、それ以上の言葉を持たない少年。

 あの目は、何かを知っていた。知っていながら、知っていることそのものを、もう思い出せなくなっているのかもしれなかった。

 そして透は、ふと気づいた。

 蛍が去り際に言ったこと——「三島さんに気をつけて」。その言葉の後、一瞬だけ、蛍の肩が震えたように見えた。ほんの微かに。霧の中の烛火が揺れるように、すぐに静止した。

 あれは、恐怖だったのか。それとも、痛みだったのか。

 透には分からなかった。ただ、蛍もまた何かを抱えている、ということだけが、骨の奥まで染みこんでくるようだった。

 廊下の突き当たりで、霞が立っていた。こちらをじっと見ていた。いつからそこにいたのか、透には分からなかった。霞は何も言わなかった。ただその目が、蛍が去った方向と、透の顔を、交互に見ていた。

 見ていた、というより——確認していた。

 透は歩みを止めずに霞の横を通り過ぎようとした。すると霞が、静かに口を開いた。

「蛍の話を聞いたのね」

「ああ」

「何を言っていたか、教えてもらえる?」

 透は少し迷ってから、答えた。

「三島さんに気をつけろって」

 霞の表情は動かなかった。しかし目の奥の何かが、かすかに揺れた。

「そう」と霞は言った。「それだけ?」

「それだけだ」

 嘘ではなかった。しかし全てを話したわけでもなかった。透自身がまだ、蛍の告白をうまく言葉にできないでいた。

 霞はそれ以上聞かなかった。透が廊下の角を曲がる寸前、霞の声が後ろから届いた。

「気をつけて、という言葉が出てきたということは」

 霞の声は、低く、静かで、霧のように透の耳の中へ滲んだ。

「蛍は、三島さんの記憶がまだ消えていないと知っているのかもしれない」

 透は足を止めた。振り返ったとき、霞はもう廊下の向こうに消えていた。霧の中に、何もなかった。

 残ったのは、その言葉だけだった。

霧の中の十四番目の証人

11

蛍の空白

朧月 汐音

2026-05-24

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第11話 蛍の空白 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版