廊下の灯りは、いつもこの時間になると半分ほど落とされる。霧積館の夜は、昼間よりもさらに濃密な暗さをはらんでいた。窓の外に広がる霧が、館全体をやわらかく、しかし確実に包み込んでいて、透はときおり、自分が霧の中に溶けていくような感覚に襲われることがあった。
霞の部屋を出た直後、その感覚がことさら強く透を捕らえた。
廊下の端、薄闇の中で富樫礼子が立っていた。胸の前に分厚いノートを抱え、眼鏡の奥の目がまっすぐ透に向けられている。彼女の表情はいつも通り静かで、しかしその静けさが、今夜はどこか異質に感じられた。見ていた、と透は思った。あるいは待っていた、と。
「少し、よろしいですか」
礼子の声は低く、廊下の空気にすうっと溶けた。問いかけというより確認の口調だった。透は答えるかわりに小さくうなずいた。
礼子が歩き出す。透は黙ってついていった。
連れてこられたのは、館の東翼にある記録室だった。書棚が三面の壁を埋め、古びた証言録や医療記録が時系列に並んでいる。礼子が唯一の窓の鍵を確認してから、卓上の電球を灯した。橙色の光が、黄ばんだ紙の束を照らし出す。
「霞さんから、何かを受け取りましたね」
腰を下ろしながら礼子が言った。透は向かいの椅子に座り、少し間を置いてから答えた。
「……記憶を、渡してもらいました」
「どんな記憶でしたか」
「女の人が泣いている場面でした。十年くらい前の、この館の中だと思います。でも霞さんは、それ以上は教えてくれなかった」
礼子は膝の上でノートを開いた。その手つきが、儀式めいて見えた。
「瀬川さん」と彼女は言った。「あなたに見せたいものがあります。見せるべきかどうか、ずっと迷っていました。でも今夜のあなたを見て、もう時間がないと判断しました」
透の胸に、形のない不安が膜を張った。
礼子がノートのあるページを開いて、透の方へ向けた。細かい字で書き込まれた証言録の一節が、橙色の光の中に浮かびあがる。透は身を乗り出してそれを読み始めた。
日付は昭和六十二年の秋だった。
記録には「B氏」とだけ記されたある患者のことが書かれていた。B氏は、透と同じく他者の記憶を無意識に吸収する体質を持っていたという。だが透と異なる点が一つあった。B氏は、あるとき自らの意志で、別の患者の記憶を「強制的に」引き出そうとしたのだ。
礼子の字は淡々としていた。感情を排した記録者の文体。それがかえって、その場の凄惨さを際立たせていた。
B氏は相手の手首を強く握り、目を閉じ、全身を震わせながら記憶を引き剥がそうとした。相手の患者は声を失い、数分後に失神した。B氏の方は意識は保ったものの、その後三日間、自分の名前すら言えない状態になった。両者の記憶が混ざり合い、どちらがどちらのものか、区別がつかなくなったのだという。
透は読む手が止まった。
「続きを」と礼子は静かに言った。
続きには、碓氷院長の所見が引用されていた。B氏の「強制吸収」は、相手の記憶だけでなく、B氏自身のそれまで積み重ねてきたアイデンティティの基盤を崩壊させた、とあった。記憶の混濁は単なる混乱ではなく、「自己の消失」に近い状態だった、と。院長はその症例に、仮の名称を付けていた。
「記憶溺水」。
透は声に出してその言葉を読んだ。自分の声が、遠く聞こえた。
「B氏は、その後どうなりましたか」
「一年ほど、ここで過ごして。最終的には、別の施設に移られました」礼子の声に、珍しく微かな陰りがあった。「回復はしましたが、完全にではなかった。移った先でも、夢の中で他人の記憶が再生し続けると話していたそうです」
透は椅子に背を預け、天井の染みを見た。
自分のことが、書いてあるように思えた。あの記録の中のB氏が、数十年後の自分の写し絵のように見えた。いや、違う。自分はまだ意図的に誰かの記憶を強制的に奪ったことはない。ただ、吸収してしまうだけだ。望まなくても、触れれば滲み込んでくる。
だが、透は知っていた。最近、その吸収の速度が変わっていることを。
三島の記憶が流れ込んだあの夜から、何かが変質した。眠るたびに見る夢は、自分のものではない。目覚めると、誰かの食卓、誰かの笑い声、誰かの指先の感触が、まるで昨日のことのように体の中に残っている。それらが堆積するにつれ、朝、目を開けるたびに「自分はどこにいたのか」と確かめなくてはならなくなっていた。
「礼子さんは」と透は言った。「なぜ今、これを見せてくれたんですか」
礼子はしばらく黙った。ノートをゆっくりと閉じながら、彼女は言った。
「霞さんがあなたに記憶を渡したのは、あなたを信頼しているからです。でも信頼は、時に人を深みへ引き込む」
「……霞さんが、僕を危険な状態にしている、と?」
「霞さんを責めているのではありません」礼子の声は変わらず平静だった。「ただ、あなたには知っておいてほしかった。あなたの能力が今どういう状態にあるかを、あなた自身が一番わかっていないかもしれないから」
透は拳を膝の上に置いた。その言葉は、やさしかった。やさしかったからこそ、胸の奥に鋭く刺さった。
礼子は立ち上がり、書棚の一段から別のノートを取り出した。こちらは新しい。彼女が毎日書き込んでいる証言録の現物だった。
「三島さんの件について、私が聞き取りをした十三人分の証言が、ここに全てあります」礼子はそれを書棚に戻しながら言った。「でも、瀬川さん。あなたが三島さんの記憶を受け取り、さらに霞さんの記憶まで受け取り始めた今、私はひとつ恐れていることがあります」
「何を」
「あなたが真相に近づいたとき、それが三島さんの記憶としてあなたの中に入ってくるのか、それとも、あなた自身の体験としてあなたを書き換えてしまうのか」
透は息を吸い込んだ。
その問いは、透がまだ言語化できていなかった恐怖の正確な輪郭を持っていた。
記憶が積み重なるたびに、透は確かめるように自分の手を見る。これは自分の手だ、と。でもその確認の回数が、ここ数日で倍になっていた。夢の中の手と、目覚めた後の手が、同じものかどうか、一瞬わからなくなることがある。
「僕は」と透は言いかけて、止まった。
礼子が待っている。急かさない。ただ待っている。その静けさが、記録室の空気の中でひっそりと広がっていた。
「僕は、自分が誰かわからなくなる前に、三島さんのことを解きたい」
言葉にすると、それが本当のことだとわかった。恐怖の中に、それでも前へ進もうとする何かがある。三島の記憶が、透の体の中で静かに呼吸している。まだここにいる、と言うように。
「わかりました」礼子は小さくうなずいた。「では明日、もう一人の証言を聞いてください。道上君です」
透は顔を上げた。
「道上、蛍を?」
「彼はずっと話すことを拒んでいました。でも今朝、私のところへ来て、話す準備ができたと言いました」
礼子の顔には読み取れない何かがあった。それが期待なのか、警戒なのか、それとも悲しみなのか、透には判別できなかった。
「理由は?」
「言いませんでした」礼子は灯りを消す準備をするように立ち上がった。「ただ、一つだけ条件を言いました」
「条件?」
礼子が透を見た。眼鏡の奥の目が、橙色の光を最後に映している。
「瀬川透に話す、と」
灯りが消えた。記録室は闇に落ち、窓の外の霧だけが、青白く浮かんでいた。