霧が深かった。
朝から変わらず館を包む白い帳は、正午を過ぎた今もいっそう濃度を増して窓ガラスに貼りつき、外の世界を完全に遮断していた。廊下を歩けば自分の足音だけが不自然に響き、どこかで軋む木材の声が、館全体が静かに息をしているような錯覚を起こさせた。
富樫礼子が証言部屋として使い始めた小会議室は、もとは院長の診察補助室だったと聞いている。古い柱時計が壁に掛かり、十五分ごとに短い鐘を鳴らす。テーブルは四人掛けのものが一台、椅子が三脚。礼子はいつも上座に座り、向かいに証言者を置く。そして斜め後ろ、窓際の椅子に、今日は透が腰を下ろしていた。
礼子が透を同席させることにしたのは昨夜のことだった。特に理由は告げなかった。ただ「あなたには見えているものがあるでしょう」とだけ言って、ノートを一冊差し出した。透はそのノートをまだ開けずに膝の上に置いている。
最初の証言者は神田修造だった。
七十二歳、館でもっとも長く暮らす老患者。かつては日本画を描いていたと聞いたが、今は筆を持たない。長い廊下を杖なしで歩く姿は緩慢で、しかしどこか確固とした重みがあった。部屋に入るとき、神田は透を一瞥し、それから礼子に向かって「にぎやかになったな」と言って椅子に座った。
「神田さん、始めてもよろしいですか」
礼子の声は穏やかだった。万年筆を持つ手だけが、かすかに緊張を示している。
「ああ」と神田は言った。「何から話せばいい」
「三島さんが亡くなった夜のことを、覚えていらっしゃる範囲で」
神田は少し間を置いた。天井を見上げるでもなく、目を伏せるでもなく、ただ正面の空気を見つめるように視線を据えた。
「色で話すことになる。それでもいいか」
「ええ、もちろんです」
透は背筋を伸ばした。神田の能力については霞から断片的に聞いていた。記憶を色彩として知覚する、と。人が放つ記憶の残滓が、神田の目には色として映る。過去の感情、執着、後悔、それらすべてが、老画家の知覚において固有の色を持っている。
「あの夜は眠れなかった」と神田は言った。「三時ごろだ。廊下に出て、水を飲みに行こうとした。東翼の廊下——三島の部屋がある方だ」
礼子がノートに書き留める。ペン先の音だけが聞こえた。
「廊下に出た瞬間、わかった。おかしな色が漂っていた」
「おかしな色、というのは」
「黒ずんだ赤だ」
神田の声はぼそりとしていたが、その言葉は会議室の空気を変えた。透は思わず膝の上のノートを握った。
「記憶の色としての赤は、強い感情の痕跡だ。怒りでも愛情でも、激烈な意志でも赤く見える。しかし黒ずんだ赤は違う。それは何かが腐りかけているときの色だ。感情が長い時間をかけて澱み、自分自身を内側から蝕んでいるときに出る色だ」
「三島さんの記憶の色だと思いますか」
「そうだと思う。廊下に澱んでいたのだから、近くにいた人間の記憶の残滓だ。あの時間に東翼にいたのは三島だけのはずだった」
はずだった、という言葉の含意を、礼子もおそらく聞き逃さなかった。
「もう一つ」と神田は続けた。「もう一つ別の色があった」
「それは」
「白だ。しかし普通の白ではない。消されかけた白だった」
透は息を詰めた。
消されかけた白。それが何を意味するか、透には直感的にわかった気がした。道上蛍の名前が頭の中で点滅する。道上は記憶を消す能力を持つ。消された記憶は、神田の目にはどう見えるのか。白として、あるいは白の痕跡として見えるのではないか。
「白は」と神田は静かに言った。「記憶が薄れているときの色だ。忘却の色、と言ってもいい。だがあの夜の白は自然な忘却ではなかった。白が不自然に途切れ、切り取られたように消えていた。誰かが手を入れた跡だ、と感じた」
礼子のペンが止まった。
「それは確かですか」
「確かだ。五十年以上この目で色を見てきた。自然に薄れた記憶と、人為的に削られた記憶とでは、色の輪郭が違う。あの夜の白は、刃物で切り裂いたように端が鋭かった」
沈黙が落ちた。柱時計が十五分の鐘を鳴らし、その音が消えるとまた静寂が戻った。
透の脳裏で、何かが動いた。
三島の記憶の断片を、透はまだほとんど自覚的に辿れていない。それらは自分の記憶と混ざり合い、夢とも現実ともつかない映像の断片として浮かんでは消える。しかし今、神田の言葉に触れた瞬間、何かが引き寄せられるように浮かび上がった。
廊下。夜。足元から冷える冷気。それから——色だ。三島は色を見ていた。自分で色を知覚する能力があったわけではない。だが三島の記憶の中に、色についての強い印象がある。誰かと話していた記憶だろうか。違う。もっと内側からの感覚だ。三島自身が自分の感情を色として認識しようとしていた、そんな印象がある。
黒ずんだ赤。
その言葉が今、三島の記憶の中に落ちて、波紋を広げた。
「神田さん」
声を発したのは透自身だった。礼子が僅かに顔を上げた。神田は透を見た。その瞳は穏やかで、しかし油断のない光を帯びていた。
「黒ずんだ赤が腐りかけているときの色だとしたら、それは三島さんが長い時間をかけてその状態にあったということですか。それとも、あの夜だけの色でしたか」
老画家はしばらく透を見つめた。それから、初めて表情らしきものを動かした。眉のあたりに、何か複雑な皺が寄った。
「するどい問いだ」と神田は言った。「あの夜だけの色ではない。三島の記憶の色は、ここ数ヶ月でずっと変わっていた。最初は深い青だった。悲しみの色だ。それがいつの頃からか赤みを帯び始めた。そして赤はだんだん黒ずんでいった」
「いつ頃から黒ずみ始めましたか」
「夏の終わりごろだ」
透は膝の上のノートをようやく開いた。何かを書き留めなければならない気がした。しかし何を書けばいいかわからず、ただペンを走らせた。夏の終わり、と書いた。黒ずんだ赤、と書いた。消されかけた白、と書いた。
神田は椅子から立ち上がりかけて、ふと透に視線を向けた。
「君の色も、少し変わってきている」
透は顔を上げた。
「私のですか」
「ああ。最初にここへ来たとき、君は淡い霧色をしていた。自分の記憶と他人の記憶が混ざり始めている者特有の色だ。しかし今は、その霧色の中に別の色が混ざっている」
「何色ですか」
神田は短く息をついた。
「濃い藍だ。三島の色だ」
その言葉が会議室の空気の中に沈んでいくのを、透はただ聞いていた。礼子がペンを置く音がした。霧の色をした窓の向こうで、何かが動いたような気がして目をやったが、そこには白い帳があるだけだった。
「証言はこれで終わりにする」と神田は言った。「ただ、一つだけ付け加えておく」
老画家は立ち上がり、杖を手にして出口に向かいながら、振り返らずに言った。
「黒ずんだ赤と、消されかけた白は、同じ場所に漂っていた。同じ時に、同じ廊下に、二つの色が重なっていた。それが何を意味するか、わしにはわからん。しかし画家として言うなら——二つの色が重なるとき、どちらかが必ずどちらかを塗り潰そうとしている」
扉が静かに閉まった。
透と礼子はしばらく無言だった。柱時計が時を刻む音だけが続いた。
礼子はノートを見下ろし、それから透に言った。
「三島さんの記憶の中に、道上さんは出てきますか」
透は答えなかった。答えられなかったのではなく、三島の記憶の深い部分に今まさに手が届きそうで、言葉にすることで逃げてしまう気がした。
ただ透の脳裏では、夏の終わりの廊下の映像が、少しずつ輪郭を取り戻そうとしていた。誰かと話す三島の声が、遠くから近づいてくるような感覚があった。それは三島の声ではなく、三島が聞いていた誰かの声だった。
その声の主が誰かを思い出す直前で、記憶はまた霧の中に溶けた。
透はノートに、もう一行書き添えた。
*三島は何かを聞かされていた。夏の終わりに。そして色が変わった。*
窓の外で、霧がひときわ濃くなった。