朝の霧は昨日より深かった。
窓硝子の向こうに広がるはずの北アルプスの稜線は完全に飲み込まれ、療養院の庭さえ白い綿の中に沈んでいる。透は自室で目を覚ましたとき、しばらく自分がどこにいるのかわからなかった。神田老人の部屋で聞いた話が、眠りの中でも静かに反芻されていたせいだろう。黒ずんだ赤。消されかけた白。廊下に重なった無数の足跡のような残影。それらが自分の記憶なのか三島の記憶なのか、もう判別がつかなかった。
礼子が朝食の後に声をかけてきた。
「双子の春日さんたちが、今日なら話せると言っています」
その一言で、透の頭の中で何かが組み直された。双子。院内でも特異な存在として知られる春日陽と春日陰の兄妹。ふたりは互いの記憶をほとんどリアルタイムで共有できるという。片方が何かを体験すれば、もう片方の脳裏にもその映像が浮かぶ。霧積館に集う能力者たちの中でも際立って奇妙な、しかし羨ましいとも思える特性だ。透は自分の能力との落差を感じながら、礼子の後に続いた。
ふたりは別々の部屋に住んでいた。これは彼らの希望によるものだと礼子は言った。同じ空間にいると記憶の干渉が強くなりすぎて、どちらがどちらかわからなくなるのだという。透には痛いほどその感覚が理解できた。
最初に話したのは兄の陽だった。
春日陽は二十代半ばの、線の細い青年だった。白い病院着がやけに似合っており、まるで最初からその服のために生まれてきたようだった。窓辺の椅子に腰かけ、膝の上で指を組んでいる。透が向かいに座ると、陽はゆっくりと目を上げた。その瞳の色は薄い琥珀で、霧の光を含んでいるように見えた。
「三島さんのことですね」と陽は先に言った。「陰から聞きました。透さんが調べているって」
「記憶を共有して」
「そうです。今朝、起きたときにはもう陰の中に入っていました」
礼子が傍らで手帳を開く音がした。
「事件の夜のことを聞かせてほしい」と透は言った。「あなたが覚えていること、感じたこと、何でも」
陽はしばらく黙った。指が一度だけ動いた。
「夜の十一時頃、廊下を歩く音がした。重くはなかった。むしろ軽すぎるくらい。私の部屋はちょうど三島さんの部屋の斜め向かいですから、気になって扉の隙間から見たんです」
「三島さんでしたか」
「わかりませんでした。霧が廊下の中まで入り込んでいて、換気口から薄く漂っていた。人の形はしていたけど、顔まで見えなかった」
「向かった方向は」
「東の廊下。浴室のある方向です」
透は胸に何かが引っかかるのを感じた。浴室。それは既に確認済みの情報とは微妙にずれていた。
礼子が礼を言い、次に陰の部屋へ向かった。
春日陰は兄と同じ造形を持ちながら、何かが根本的に違った。同じ薄い琥珀の瞳なのに、見つめ返してくる重さが違う。兄が透明な水なら、妹は深く沈んだ湖底のようだ。陰は部屋の隅のベッドに腰かけており、透たちが入っても立ち上がらなかった。
「兄から聞きました」と陰は言った。「廊下の音の話をしたでしょう」
「はい。東の廊下へ向かう足音を見た、と」
陰の表情が一瞬だけ動いた。水面に小石を投げたときのような、ほんの小さな波紋。
「私が見たのは、西の廊下でした」
透は瞬きをした。
「もう一度、確認させてください」と礼子が静かに言った。「兄の陽さんは東の廊下へ向かう足音を見たと言いました。あなたは西の廊下だと」
「そうです。西の廊下。非常口の方向」
「間違いありませんか」
「私が嘘をつく理由がわかりません」
沈黙が部屋に落ちた。窓の外で霧が揺れている。透は頭の中で地図を広げた。東と西では、霧積館の構造上、全く別の場所だ。東は浴室、食堂、共有スペース。西は非常口、そして物置として使われているかつての検査室。ふたりが見た人物が同じ人物であれば、どちらかが嘘をついている。あるいは——。
「ふたりは記憶を共有しているはずですよね」と透は言った。慎重に言葉を選びながら。「事件の夜のことも、互いに見えているはずではないですか」
陰はしばらく答えなかった。
「普通はそうです」とようやく彼女は言った。「でも」
「でも?」
「あの夜だけ、陽の記憶が私の中に入ってこなかった」
透の背筋に冷たいものが走った。
「どういうことですか」
「わかりません。朝になったら兄の記憶が戻ってきていたけど、あの夜の数時間だけ、遮断されていた。初めてのことでした。私たちが生まれてから、そんなことは一度もなかった」
陰の声に感情はなかった。しかしその無感情さが、むしろ言葉の重さを増していた。透は礼子と視線を交わした。礼子の目が「もっと聞いて」と言っていた。
「陽さんの方でも同じことが起きていたのでしょうか」
「知りません。私からは聞けない」
「なぜ」
陰はそこで初めて視線を外した。部屋の隅、窓のない壁の一点を見つめる。
「それを話したら、兄が壊れると思うから」
答えはそれだけだった。透がもう一度問いかけようとすると、陰は「もう話すことはない」と静かに遮った。その静けさは脅しでも懇願でもなく、それ以上どこにも動かないという意志の固さだった。
廊下に出ると、透は壁に背を預けた。頭の中が騒がしかった。三島の記憶の断片が、双子の証言に反応してざわめいている。黒ずんだ赤の中に、細い影が二つあった気がした。いや、一つか。それとも一つが二つに見えていただけか。
「東と西」と礼子が呟いた。メモを見ながら、鉛筆の先で頬を軽く叩く。「どちらかが嘘をついているのか、あるいは別々の人物を見ていたのか」
「もしくは」と透は言った。「記憶共有が遮断されたのが本当なら、ふたりが見たのは同じ時間の同じ場所かもしれない」
「それはどういう意味?」
「同じ人物が、東にも西にもいた。同時に」
礼子が顔を上げた。透は続けた。
「あるいは——誰かがそのように見せた」
霧が廊下の換気口から静かに忍び込んでいた。冷たく、湿った白さ。道上蛍の顔が透の脳裏をよぎった。記憶を消す少年。記憶を消せるなら、記憶に干渉することも、あるいは。
透は考えを止めた。まだ早い、と自分に言い聞かせた。双子の矛盾には、まだ触れていない核がある。陰は「兄が壊れる」と言った。それはどういう意味だ。壊れる、という言葉。その選択に、透は強く引っかかった。陽が壊れるのではなく、陽が壊れると陰が思っている——そこに、ふたりの間にある決定的な非対称が潜んでいるのではないか。
「もう一度、陽さんに会いに行きましょう」と透は言った。
「今日の午後にもう一度?」
「今すぐ」
礼子は少し間を置いてから頷いた。ふたりは来た廊下を戻り始めた。霧が足元に纏わりつく。
陽の部屋の前まで来たとき、扉の向こうから微かな音が聞こえた。泣き声ではない。何か低く、規則的な音。透は耳を澄ませた。
それは、誰かが何かを繰り返し呟いている声だった。
透は礼子を制して、そっと扉に耳を近づけた。霧積館の古い木の扉越しに、陽の声が漏れてくる。言葉は聞き取れない。ただその声の調子に、透は覚えがあった。
三島の記憶の中にあった声と、同じ抑揚だった。