深夜の廊下に満ちていた気配は、夜明けとともに霧へ溶けた。
透は自室の窓ぎわに立ち、白く濁った外の景色をただ眺めた。眠れなかったわけではない。眠りはした。けれど夢の中でも三島の部屋の天井板がずれ続け、板と板の隙間から何か細いものがするりと落ちてくる光景が繰り返された。目が覚めるたびに手のひらをたしかめた。何も握っていない。ただ汗だけがにじんでいた。
朝食の時間になっても、透は食堂へ向かう気になれなかった。富樫礼子が部屋の前を通りかかったとき、扉の隙間から「今日の午前に桐島さんが話してもいいとおっしゃっているわ」と告げて足を止めた。その声には抑制された緊張感があった。礼子はいつも感情を帳面の行間に押し込めるように話すが、今朝ばかりは何かが滲んでいた。透は頷き、上着を肩にかけた。
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桐島文江の部屋は、霧積館の東棟の、階段に最も近い角部屋だった。
扉を開けると、六十代ほどの小柄な女性が、窓辺の椅子に背筋を正して座っていた。髪は白に近い銀色で、几帳面に結い上げてある。膝の上には何も置かれていない。両手だけが、祈るような形で重なっていた。
「瀬川さんね」
桐島文江は透を見上げ、静かに言った。声は低く、落ち着いているが、その奥に何か削られたあとのような響きがある。元教師という肩書きが、どこか納得できる声だった。
「お時間をいただいてありがとうございます」
透は礼子の隣に腰を下ろした。礼子はすでに帳面を開いている。ペン先を紙に当てたまま、息をひそめるように待っている。
「三島さんのこと、お話しします」
桐島は言葉を選ぶように少し間を置いてから、続けた。
「私の能力のことは、ご存知ですか」
「感情を記憶として受け取る、と聞いています」
「正確には――他者が体験した感情が、私の中で映像のように記録されるんです。意図せず。望まなくても。強い感情を持った人が近くにいると、それが私の中に入ってくる。昔は授業中にそれが起きて、生徒たちの恐怖や孤独が一度に流れ込んでくることがありました。教壇に立っていられなくなって、ここへ来たんです」
透は黙って聞いた。桐島の語り口には、自嘲も悲壮感もなかった。ただ事実を述べるような平静さがあった。それがかえって、彼女の歳月の重さを想わせた。
「三島さんのことを話すなら、事件の前の夜のことを言わなければなりません」
桐島は両手をわずかに握り合わせた。
「あの夜、私は食堂でお茶を飲んでいました。夜の十時少し前だったと思います。三島さんが食堂へ入ってきた。水を飲みに来ただけだったみたい。私に気づいて、少し会釈して、それだけでした。それだけのことだったのに」
言葉が、そこで一瞬止まった。
「彼の感情が、流れ込んできたんです。ひどく強い――後悔と、恐怖でした」
透の手のひらが、膝の上で静止した。
「どんな感じの、後悔でしたか」
「取り返しのつかないことをしたという感覚です。何かを壊してしまった、あるいは誰かを傷つけてしまった、という。それが長い年月をかけて積み重なった後悔でした。一夜のものじゃない。ずっと抱えてきたものが、あの夜だけ特別に強く溢れていた」
桐島は透を見た。その目には、静かな痛みがあった。
「恐怖は――何かを失う恐怖じゃなくて、何かに近づいてくる恐怖でした。何かが決まってしまう夜、という感じ。言葉では説明しにくいのですが、あの感情を受け取ったとき、私は直感的に思ったんです。三島さんは今夜、何かを決意しているのかもしれない、と」
礼子のペンが止まった。透は気づかないふりをした。
「そのことを、誰かに伝えましたか」
「翌朝、話そうと思っていました」と桐島は静かに言った。「翌朝には、もう遅かった」
それきり、しばらく沈黙が続いた。霧が窓ガラスをゆるやかに流れる音だけが、薄く聞こえるような気がした。
「もうひとつだけ、聞いていいですか」
透は声を落として言った。
「三島さんが、碓氷院長に何かを返さなければならなかった――そういうことを、何かご存知ですか」
桐島の表情が、初めてわずかに揺れた。
「どこで聞いたの、そのこと」
「三島さん自身が、誰かに話していたと」
透は曖昧にごまかした。実際には、三島の記憶の断片の中で何度か浮かびあがってきた言葉だった。返さなければならない。返す前に死ねない。そしてある夜の夢の中で、三島が碓氷の名前を呼ぶ声を聞いた。それが三島の記憶なのか、自分自身の夢なのか、もはや分けることができなかった。
「三島さんは昨年の冬、私に一度だけ話してくれたことがあります」
桐島は続けた。
「碓氷先生に、命を助けてもらったと。ここへ来る前、三島さんはひどい状態だったそうです。外の世界では能力を制御できなくて、自分がどこかへ消えていく感覚があって、死を考えるところまで追い詰められていた。碓氷先生が見つけて、ここへ連れてきた」
「それは感謝の話では」
「ええ、そのはずなんです」桐島は膝の上の手を見下ろした。「でも三島さんの言い方は、感謝とは少し違っていた。恩を受けた、という感覚より、借りを作った、という感覚に近かった。碓氷先生が自分に何かを期待している、その期待に応えられていない、だから返さなければならないものがある――そんなふうに聞こえました」
透は息を吸った。
「碓氷先生は、三島さんに何を期待していたんでしょう」
「それは、わかりません」と桐島は言った。「ただ」
老教師は窓の外の霧へ視線を移した。白く、何も見えない。
「三島さんが碓氷先生の名前を口にするとき、受け取れる感情が変わるんです。感謝じゃない。後悔でもない。もっと複雑な何か。畏れ、というより近いかもしれません。あるいは、愛情と恐怖が混ざり合ったような」
透は無意識に、三島の記憶の中の風景を探った。院長室の窓。碓氷の背中。薄暗い廊下の突き当たりで扉が閉まる音。それらはどれも、三島のものなのか、それとも自分が作り上げたものなのか。区別がつかない。区別がつかないまま、それでも感触だけは確かだった。三島は碓氷を恐れていた。そして同時に、碓氷だけが自分を救えると信じていた。
その二つが同時に成立する人間関係というものが、透には重く感じられた。
「桐島さん」
透は立ち上がりながら言った。
「事件の夜、廊下に誰かいたことはご存知ですか」
桐島は透を見た。その目がかすかに細くなる。
「気配は感じました。感情は受け取れなかった。遠かったのか、それとも意図的に抑えていたのか」
「感情を抑えることができる人が、この館にいると思いますか」
桐島はしばらく沈黙した。それから静かに言った。
「道上くんなら、できるかもしれません」
部屋を出ると、廊下は静まり返っていた。礼子が隣に並び、帳面を胸に抱えて歩く。透はその横顔を見た。礼子の表情はいつも通り、何かを押さえつけている顔だった。
「碓氷先生と三島さんの間に、何かある」
透が呟くと、礼子はわずかに歩みを遅らせた。
「記録の中にも、それは出てこないわ」と彼女は言った。「記録に出てこないことが、本当に存在しないのか、それとも書かれなかっただけなのか、私には判断できない」
透は答えなかった。
廊下の突き当たりに、碓氷院長の部屋がある。その扉は今日も閉まっている。扉の向こうに何があるのか、透にはまだわからない。けれど三島の記憶の中で、その扉が何度も現れていた。開かれるたびに、何かが変わった。
碓氷は三島に何を期待していたのか。
三島は何を返そうとしていたのか。
透は立ち止まり、もう一度その扉を見た。霧の光の中で、扉の輪郭だけがくっきりと浮かんでいた。