扉に触れた瞬間、冷気が指先から骨まで沁みた。

 十三番目の部屋――三島が死んでいた部屋――は、事件から三週間が経った今も封鎖されたままだった。院長の碓氷が「調査が完了するまで」と言い渡した鍵は、礼子が管理している。彼女が無言でそれを差し出したとき、透はその重さに思わず息を詰めた。鉄の鍵ではなく真鍮製で、長年の手脂を吸って黒ずんでいた。

「入りますか」

 礼子が言った。問いかけではなく、確認だった。

「はい」と透は答えた。

 鍵を差し込むと、錠前はひどく硬く、二度ほど力を込めてようやく回った。扉が内側に開くと、三週間分の閉じ込められた空気が一度に溢れ出してくるような気がした。実際にはただの冷えた室内の匂いだったが、透の内側で何かがざわめいた。三島の記憶が、この空間を知っている。

 部屋は六畳ほどだった。霧積館の他の部屋と同じつくりで、西側に小さな嵌め殺しの窓、東側に木製の衣装棚、北の壁際にベッド。そのベッドの上で三島は発見された。現在は布団も枕も運び出されており、むき出しのスプリングが鈍く光っている。

「まず扉の施錠機構から確認しましょう」

 礼子は手帳を開いていた。几帳面な字で「第十八次調査」と書き込んでいる。透は彼女が何度目の調査であるかを正確に記録していることに、今更ながら驚いた。

 扉の内側には古い差し込み式のかんぬきが一つ。外からは鍵でのみ操作できる。礼子がかんぬきを動かすと、金属が金属を擦る低い音が室内に響いた。

「外からかんぬきを掛けることは、この構造では不可能です」と礼子は言った。「鍵はマスターキーが一本、三島さん自身が持っていた一本の合計二本しか存在しない。後者は発見時に室内にありました。前者は院長の管理下に」

「つまり三島が自分で鍵を掛けた、あるいは誰かが中に入ったままかんぬきを掛けた後、別の方法で脱出した」

「そういうことになります」

 透は窓に近づいた。西向きの窓は一般的な引き違い窓ではなく、木枠に嵌め込まれた固定ガラスだった。開閉不可能な構造であることは一目でわかる。ガラスには細かい亀裂もなく、封蝋のように隙間なく木枠に収まっている。

「嵐の夜でも、これが開いた形跡はない」

「ガラスの割れた跡も、木枠が外れた痕跡もありません」礼子がすかさず補足する。「あの夜の暴風雨は凄まじかった。もし外から侵入を試みたとしても、崖側の外壁は足場がない。私は翌朝、外から確認しました」

 透はガラスに額を近づけた。北アルプスの霧が、今日もガラスの外側に白く貼りついている。その白の向こうに何があるのか、何も見えない。

 天井を見上げたのは、ほとんど無意識だった。

 霧積館の天井は、昭和初期の建築によく見られる和洋折衷の仕様で、木材を格子状に組んだ上に石膏ボードを嵌め込む形式だった。他の部屋と同じ、くすんだ白。だが。

「礼子さん」

 透は声を落とした。

「あの板」

 北東の隅、衣装棚の真上あたりにある天井板の一枚が、ほんのわずかだけ――それこそ二、三ミリほど――ずれていた。他の板との継ぎ目が、一か所だけ均一ではない。

 礼子が手帳から顔を上げ、透が指差す方向を見た。しばらく黙っていた。

「気づきませんでした」

 それは彼女にしては珍しい言葉だった。礼子が何かを見落としたと認めるのは、透の記憶では初めてのことだ。

 衣装棚は空だった。透がその上に乗ろうとすると、礼子が無言で棚の前に立ち、手を貸した。透は礼子の肩を借りて棚の上に立ち、天井板に手を伸ばした。

 指が板の縁に触れた瞬間、ずれている側がわずかに動いた。固定されていない。嵌め込み式で、持ち上げれば外れる構造だった。透はゆっくりと板を押し上げた。暗い空間が口を開けた。

「天井裏です」透は言った。「続いています」

 天井裏は想像より深かった。三十センチほどの空間があり、埃と古い木材の匂いが降ってきた。懐中電灯を礼子から受け取り、内部を照らす。梁が規則正しく並び、その上に石膏ボードが並んでいる。隣の部屋へ、さらにその先へと続いているだろう。

「人が通れるか」透は言った。

「通れません」礼子は即座に答えた。「三十センチでは」

「でも誰かが通った形跡が――」

「埃のつき方が均一すぎます。長期間、誰も触れていない」

 透は板を元に戻した。棚から降りながら、先ほどまで感じていた高揚が急速に冷めていくのを感じた。発見だと思ったものが、すぐに行き詰まりを示す。これの繰り返しだ。

「でも」礼子がぽつりと言った。「このズレ自体は、誰かが意図して動かしたものかもしれない」

「どういう意味ですか」

「人が通るためではなく、何かを隠すために。あるいは、何かを確認するために」

 透は天井を見上げた。ずれた板。その向こうの闇。

 その夜、透は夢を見た。

 夢の中では、自分が三島だった。

 それは今に始まったことではない。三島の記憶が流れ込んでくるとき、透はいつも「三島として」物事を体験する。今夜の夢はしかし、これまでで最も鮮明だった。

 十三番目の部屋。今日の昼間に見たままの、六畳の空間。だが夢の中では布団も枕もあり、衣装棚には三島の衣服が並んでいた。窓の外では嵐が吹き荒れている。

 三島は机に向かっていた。手には万年筆。白い便箋。

 書いている。何かを。

 透は三島の目で、その文字を読もうとした。しかし文字はいつも霞んで、意味になる手前で消えていく。もどかしさが喉の奥に詰まる。これが三島の感情なのか、自分の感情なのか、もうわからない。

 嵐の音が大きくなった。

 三島は万年筆を置き、立ち上がった。衣装棚の前に立ち、棚の上を見上げる。

 天井板を見上げている。

 その目に浮かんでいたのは何だろうか。恐怖ではない。諦念でもない。透には、それが「確認」のように見えた。隠したものを確かめるような、あるいは隠し続けることを誰かに見届けてもらうような、奇妙な静けさ。

 嵐が最も激しくなった瞬間、三島が振り向いた。

 透と目が合った。

 三島の唇が動いた。音のない言葉。透は必死に読み取ろうとした。

 「まだ、早い」

 透は目を覚ました。

 天井が白く光っていた。霧が窓の外で動いている。体中が汗ばんでいた。

 まだ、早い。

 三島は誰に向かってそう言ったのか。透に向かってか。それとも、あの夜に部屋の中にいた誰かに向かってか。あるいは夢が見せた幻に過ぎないのか。

 透は起き上がり、暗い窓の外を見た。

 天井板のズレ。三島が天井を見上げていたこと。あの「確認」するような眼差し。

 何かが隠されている。天井裏に通れる人間はいなくても、何かが、隠されている。

 そして透は今初めて、ある人物のことを思った。春日陽の部屋の位置を。十三番目の部屋から数えて、廊下を挟んで斜向かい。天井裏は繋がっているはずだ。

 もしも天井板を動かした者が、通過するためではなく、何かを渡すために使ったとしたら。

 廊下の奥で、何かが軋む音がした。

 透は息を殺した。

 深夜の霧積館で、誰かが歩いている。

霧の中の十四番目の証人

18

密室の構造

朧月 汐音

2026-05-31

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