廊下の突き当たりには、霧がある。
正確には、廊下の突き当たりの窓から、霧が見える。分厚い板ガラスの向こう側で、白いものが緩慢に渦を巻いていて、それはまるで生きているようでもあり、死んでいるようでもあった。透はその窓の手前で立ち止まり、深呼吸した。北アルプスの冷気が壁を通して伝わってくるような気がした。
十三番目の部屋は、廊下の最奥にある。
左右に並ぶ十二の扉はすべて等間隔に設けられているが、この最後の扉だけは、わずかに他より奥まった位置に据えられているように見えた。錯覚かもしれない。透はそう思おうとしたが、廊下を歩くたびに足音が変わる気がした。床板の鳴り方が、どこか違う。
神田老人の言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
*十三番目の部屋のことが気になるなら、行ってみればいい。若者は足を動かすべきだ。*
老人は笑っていたが、その笑いに奥行きがあった。何かを知っていて、知っていることを知らせながら、それでも自分の口からは言わないという種類の笑い。透はそういう笑いにはもう慣れていた。この霧積館では、ほとんどの人間がそういう笑いを持っている。
扉を、ノックした。
一度。二度。
間があって、「はい」という声が聞こえた。低くも高くもない、どこか中性的な声だった。
「失礼します」と透は言って、扉を開けた。
部屋の中は、他の入居者の部屋と同じ造りだった。六畳ほどの洋室に、窓際にベッド、壁際に小さな机と椅子。しかしその部屋だけに固有の空気があった。それは言語化しにくいものだったが、しいて言うなら、*圧縮された静けさ*とでも表現するしかない。何かが、部屋の中に詰め込まれている。それが無音の形をとって、空間に満ちている。
机の椅子に、男が座っていた。
四十代の前半だろうか、あるいは三十代の後半かもしれない。白いシャツの袖を肘のあたりまで折り上げ、膝の上に開いた文庫本を伏せて、透の方を向いた。顔立ちは整っていたが、それ以上に印象的だったのは微笑みだった。自然で、温かく、親しみやすい。透はその笑顔を見た瞬間、なぜか少し安心した。そして安心したことに、わずかに警戒した。
「瀬川君だね」と男は言った。「碓氷先生から聞いていたよ。最近来られた方だと」
「三島さんですか」と透は聞いた。
「そう。三島光一郎。よろしく」
男は立ち上がり、手を差し伸べた。透はその手を握った。普通の、温かい手だった。記憶が流れ込んでくるかと身構えたが、何も起きなかった。透は無意識に息を吐いた。
「緊張しなくていい」と三島は言って、椅子を引いて透に勧めた。自分はベッドの端に腰掛けた。「君の能力のことは聞いている。他の人の記憶が入ってくるんだろう。私のは、少し種類が違うから」
「複製、ですか」と透は聞いた。
三島は少し驚いたように眉を上げた。「ずいぶん早く耳に入るんだね」
「神田さんから」
「ああ、神田さん」三島は笑った。「あの方は、情報の通り道だから。悪い意味じゃなく」
窓の外では霧が動いていた。部屋の窓は廊下の突き当たりの窓と同じ方向を向いており、白い靄の向こうに、山の稜線がかすかに見えた。透はその景色を視界の隅に置きながら、三島の話を聞いた。
複製という能力は、言葉通りのものだった。他の誰かの記憶に触れると、それを正確に複写して自分の中に取り込むことができる。原本は消えない。相手の中にも残る。ただ、複写された記憶は本物と区別がつかないほど鮮明で、三島はそれを必要に応じて呼び出すことができるという。
「消えないんですか、記憶は」と透は聞いた。
「消えない。どちらも残る。それが複製というものだから」
「それは……辛くないですか」
三島は少し考えるような間を置いた。「辛いというより、重い。たくさん持っていると、本当に重い。ちょうど本棚に本を詰め込みすぎた時のようにね。どれが自分の本で、どれが借りてきた本なのか、たまにわからなくなる」
透はその言葉に、胸の内側が引き絞られるような感覚を覚えた。
「私も……そういう感覚があります」と透は言った。「自分の記憶と、入ってきた記憶の、境目が」
「そうだろうね」三島は穏やかに言った。「君の場合は、向こうから来るんだろう。私の場合は、自分から取りに行く。方向が違うけれど、結果は似ている」
会話は自然に続いた。三島は話すのが上手く、聞くのはさらに上手かった。透が言いよどむと待ち、透が言い過ぎると軽い言葉で受けとめて逃がしてくれた。霧積館に来てからこれほど楽に話せた相手は、霞を除いていなかった。霞の場合は楽というより、言葉がいらないという感じに近かったが。
「先生の研究に、協力しているんですか」と透は、少し間を置いてから聞いた。
三島はかすかに表情を変えた。変えた、というより、何かが表情の奥にゆっくりと引っ込んだ、という感じだった。
「協力、というほどのものでもないけれど」と三島は言った。「先生には世話になっているから、できることはしている。それだけだよ」
「食事を、最近欠かされているとか」
今度の間は、少し長かった。三島は透を見た。笑みは消えていなかったが、その笑みが何を意味するのか、透には読めなかった。
「ずいぶん気が付くんだね、瀬川君は」
「今日、食堂にいなかったので」
「体の具合がよくなかっただけだよ」三島は言った。「この霧は、慣れないうちは気圧にやられる。そういうことが、まだある」
透はその答えを聞きながら、何かが少しだけずれている感覚を覚えた。嘘だとは言い切れない。だが、本当のことだとも言い切れない。三島の言葉はすべて滑らかで、温かく、親切で、それゆえにどこにも引っかかりがなかった。引っかかりがなさすぎるものは、時として、何かを隠しているより怖い。
「もし食堂に来られるようになったら」と透は言った。「一緒に食事しましょう」
「もちろん」三島は笑った。「それは楽しみだ」
廊下に出て、扉が閉まる音を聞いたとき、透は少しの間その場に立っていた。
何かが、部屋に残ってきた気がした。いや、逆だ。何かが、部屋の中で、続いている。三島光一郎という男が、透が去った後も、静かに、何かを続けている。
透はその感覚を言葉にできないまま、廊下を引き返した。突き当たりの窓から霧が見えていた。
その夜、透は布団の中で、三島の笑顔を思い出していた。
温かい笑顔だった。親切な笑顔だった。
だが、どれだけ思い返しても、その笑顔の奥に何があるのかが、透にはわからなかった。他者の記憶を無意識に吸収してしまう透が、三島との会話の中で何ひとつ流れ込んでこなかったことに、今さらながら気づいた。
それは三島の能力の性質によるものかもしれない。複製する者は、与えない。そういうことかもしれない。
だが、もしそうでないとしたら。
もし三島光一郎が、透に触れながら、何も渡さなかったのだとしたら。
意図的に、何も渡さなかったのだとしたら。
透は目を閉じた。霧積館の夜は静かだった。壁の向こうで、誰かが寝返りを打つ音がした。十三の部屋に、十三の人間が、それぞれの記憶を抱えて横たわっている。その夜の透には、なぜかそれが、ひどく孤独なことのように思えた。