廊下の端、いつもより霧が薄い午後だった。
透は昼食の後、少し眠れるかもしれないという淡い期待を胸に自室へ向かっていた。三島光一郎の部屋を辞してから一日が過ぎたが、あの静かな人物のことが頭を離れない。他者の記憶を複製できるという能力を持ちながら、三島は透に何も流し込まなかった。あれは遮断だったのか、それとも単なる気遣いだったのか。どちらとも取れる曖昧さが、透の中で小骨のように引っかかり続けていた。
西棟と東棟をつなぐ渡り廊下を歩いていたとき、透は足を止めた。
廊下の突き当たり、普段は通ることのない北側の短い通路の奥に、扉が一枚開いていた。開いている、というより、開けっ放しのまま誰かが立ち去ったという様子で、蝶番が僅かに軋んでいる。その隙間から、黄色みがかった光が漏れていた。
透は近づかないつもりだった。霧積館には「立ち入るな」という言葉を誰も口にしないが、その分、暗黙の領域が至るところに存在する。そこが碓氷院長の研究室であることは、廊下の曲がり具合と、漏れてくる光の色で直感的に分かった。扉に表札はない。しかし、かつて霞が「院長室より北へ三つ折れ、突き当たりの扉だけには近づかないで」と言ったことを、透は覚えていた。
いや、覚えているのは本当に自分なのか。
そう自問した瞬間、体がすでに動いていた。
隙間から見えたのは、壁だった。正確には、壁を覆い尽くす紙の層だった。
A4の白い紙が、几帳面とは言えない規則性で、画鋲と薄茶色のテープで何枚も何枚も貼り連ねられている。文字の大きさはまちまちで、鉛筆書きもあれば万年筆の濃い跡もある。中央の一枚には手描きの図が描かれており、丸と矢印と数字が複雑に絡み合って、一見すると何かの回路図のようにも見えた。
透は目を細め、もう少し扉に近づいた。
図の上に書かれた文字が読めた。「能力の連鎖反応」。
その四文字が網膜に刻まれた瞬間、透は自分の鼓動が一拍遅れたのを感じた。図の中に、名前があった。霞。道上。三島。そして、透自身の名前も。
見てはいけないものを見た、という感覚が肌の表面に広がった。しかしそれよりも先に、目が情報を貪り始めた。矢印は能力の方向を示しているようだった。霞から三島へ。三島から複数の丸印へ。そしていくつかの丸印が、透を示す記号と重なっている。
なぜ自分の名前がここにあるのか。透が霧積館に来たのは、ほんの数ヶ月前だ。にもかかわらず、この図はどこか古びた紙に書かれているように見えた。
廊下の奥で、足音がした。
透は反射的に身を引いた。壁に背を押しつけ、息を殺す。足音は遠ざかっていった。どこかの患者かもしれない、あるいは看護師かもしれない。足音が完全に消えた後も、透はしばらくその場を動けなかった。
扉の前に戻る気にはなれなかった。あの壁の全容を見届けることを、体が拒んでいた。
透はゆっくりと自室へ引き返した。
---
夕方、食堂に集まった患者たちの間で、ラジオが鳴り始めた。
霧積館のラジオは古いもので、雑音混じりの音声が食堂の空気に溶けるようにして流れる。天気予報の時間だった。アナウンサーの声は、静かな食堂にやけに明瞭に響いた。
——台風十二号は現在、小笠原諸島の南南東に位置しており、今後北北西に進路を取る見通しです。三日後から四日後にかけて、本州に接近する可能性があります。山間部では強風と大雨に警戒が必要です——
食堂の中が、静かに変わった。会話が途切れたわけではない。むしろ誰も何も言わなくなったのに、空気だけが密度を増したような、そういう沈黙だった。
透は窓の外を見た。霧は相変わらず山の斜面を覆っており、今日の夕暮れがどんな色をしているのかも分からない。台風が来る。その言葉が、閉じられた空間に特別な意味を帯びて落ちた。
霧積館は孤立している。電話は院長室にあるが、通じないことの方が多い。道は一本しかなく、雨が続けば土砂崩れで塞がれる。そういうことは、透が来た当初から分かっていた。しかし台風という言葉を聞いて初めて、自分がいかに外界から切り離された場所にいるかを、透は改めて実感した。
富樫礼子が向かいの席でコーヒーカップを静かに置いた。彼女は透が研究室の前に立っていたことを、知っているだろうか。いや、彼女にそういう能力はない。しかし富樫の観察眼は、能力とは別の次元で鋭い。透は目を合わせないようにしながら、自分の夕食のトレイを見つめた。
「台風、嫌ね」
誰かが言った。奥のテーブルに座った年配の女性患者だ。
「毎年こうして閉じ込められると、何かが起きる気がして」
それに答える声はなかった。でも、全員がどこかで同じことを思っているのかもしれない、と透は感じた。
道上蛍は食堂の入口に近い席に一人座って、食事にほとんど手をつけていなかった。あの少年はいつも食堂では端に座る。誰とも目を合わせず、でも全員の動向を把握しているような目をしている。透が研究室の前で感じた戦慄に近いものが、道上を見るたびに薄く蘇る。
三島光一郎は今日の夕食に現れなかった。
---
夜、透は自室の窓際に座って霧を見ていた。霧の向こうから時折、木々が風に揺れる音が聞こえた。台風はまだ遠い。しかしその予兆が、すでに山の空気に混ざり込んでいる気がした。
壁の図が、目を閉じると瞼の裏に浮かぶ。「能力の連鎖反応」という文字。自分の名前を示す記号。霞から三島へ向かう矢印。
透は霞のことを考えた。表情が乏しく、しかし何かを確かに知っていて、時々透に視線を向ける。あの目は何を見ているのだろう。記憶を「渡す」ことができる彼女が、これまで誰に何を渡してきたのか。渡された記憶は、相手の中でどう変容するのか。
ふと、霞の横顔が脳裏に浮かんだ。昼間に廊下で見かけたときのものではなく、もっと別の、霧の中で立ち尽くすような横顔だ。それが自分の記憶なのか、誰かから流れ込んだものなのか、透には判別できなかった。
霧積館に来てから、そういうことが増えた。境界が溶ける。自分が体験したことと、体験していないことの間の線が、雨に濡れた墨のように滲む。
扉をノックする音がした。
立ち上がって扉を開けると、廊下には誰もいなかった。ただ、床の上に一枚の紙が落ちていた。透は拾い上げた。白い紙に、鉛筆で一行だけ書いてある。
——研究室の鍵は、いつも閉まっています。
差出人の名はなかった。
透は紙を持ったまま、廊下の暗がりを見つめた。誰かが見ていた。そしてその誰かは、透が今日見たものを知っている。
台風はまだ三日先だ。しかしその言葉を読んだ瞬間、嵐はもうすでにここにある、と透は思った。