志津の小屋を出ると、雪はいっそう深くなっていた。
朔は足元を確かめながら歩いた。踏みしめるたびに雪がきゅっと鳴く。その音だけが、しんと凪いだ夜気の中に響いた。
老婆の語りがまだ耳の奥に残っていた。名を呼んだ。それだけで、姉の葛は逝ってしまった。儀式を妨げた報いとして、村に三年間雪が降らず、七人が死んだという。
だがそれ以上に朔の胸を占めていたのは、志津が「返し言葉」という言葉を耳にした瞬間の、あの表情だった。驚きではなかった。戦慄でもなかった。あれはもっと根の深いものだった。まるで、とうの昔に封じたはずの扉が、内側からわずかに押し開けられるのを感じたときの顔、とでも言うべきものだった。
朔はその言葉を、どこで知ったのだろう。
立ち止まった。雪が足首まで積もった坂道の中ほどで、朔は自分の呼吸が白く昇るのを見つめた。
「返し言葉」。
口の中で転がすと、言葉はするりと馴染んだ。まるでずっと前から知っていたかのように。
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その夜、朔は教員宿舎の六畳間に戻り、布団も敷かずに文机の前に座った。
窓の外は真っ暗だった。村の灯りはとうに消えており、曇天に遮られた夜空には星ひとつない。雪だけが白く、闇の中でほのかに自ら発光しているように見えた。
朔は手帳を開き、何かを書こうとした。しかし筆が止まった。
頭の中で、ぼんやりとした影が動いていた。
幼いころの記憶、というよりは、記憶のかたちをした霧だった。輪郭だけがあって、中身が空洞になっている。父に連れられてどこかへ行ったこと。夏だったか冬だったか、それさえ定かでない。ただ、山があった。深い山と、低い空と、どこかよそよそしい家々の並ぶ道。
自分の父は朔が十二歳のときに事故で亡くなった。父の故郷についてはほとんど聞かされていなかった。母は父の出身地を「東北の山の中」とだけ言い、それ以上は語らなかった。朔自身も、深く問うことをしなかった。
いや、できなかったのかもしれない。
何かを、見たから。
その記憶の手前で、いつも思考が濁った。霧が濃くなり、先へ進めなくなる。幼いころから何度かそこへ近づこうとして、そのたびに別のことを考え始めてしまう。意識的な回避ではなく、まるで道そのものが塞がれているような感覚だった。
今夜は、少し違った。
志津の小屋で聞いたこと、見たこと、そして「返し言葉」という四文字が、何かの楔のように朔の記憶の扉を揺さぶっていた。
山道。雨戸の閉まった古い家。父の背中。そして——
人形。
朔は息をのんだ。
暗い部屋の片隅に、それはあった。記憶の中の部屋だ。おそらくは父の実家か、あるいはその近くの誰かの家か。黒髪を二つに分けて垂らし、白い打掛を着せられた市松人形。ガラスの目が、濡れたように光っていた。
朔は当時、怖くはなかった。ただじっと見つめていた。
すると人形もじっと、朔を見つめていた。
それだけだ。それだけのはずなのに、なぜか記憶はそこで割れ、前後を失っている。前はどうだったか。後はどうなったか。父は何を言ったか。誰かが何かを言ったか。
すべてが霧の向こうに消えていた。
朔は手帳に何かを書き付けようとして、気づいたら「白妻」と書いていた。
それを見下ろしながら、ふと手が止まった。
白妻。しらつま。
そして、白瀬。しらせ。
声に出して、二度、三度と繰り返した。
「しらつま」「しらせ」。
音が近い。似ている。偶然とも言えるし、偶然とも言えない。日本語の地名と苗字には、こういう一致がしばしばある。気にするほどのことでもないかもしれない。
しかし、合理主義者である朔の中の別の何かが、静かに反論した。
この村に赴任したのは、自分の希望だった。教育委員会からの辞令に、離島や山間僻地への赴任希望を出したのは事実だが、なぜ白妻村を選んだのか、あのとき自分は何を感じていたのか。
正直なところ、よく思い出せなかった。
白妻村という名前を見たとき、胸の中に何かがあった。安堵とも懐かしさともつかぬ、奇妙な感触。家に帰ってきたような。いや、帰らなければならない場所に踏み出したような。
朔は手帳に「しらつま→しらせ」と書き、線で繋いだ。
それから「父の故郷」と書き、「東北・山間部」と書いた。
村の古老に訊けばわかるかもしれない。しかし、誰が答えてくれるだろう。透は朔を外部者として徹底的に排除しようとしている。他の村人たちも、朔に対する警戒は薄れていない。
志津なら。
しかし今夜はもう戻れない。老婆はあの「返し言葉」への反応のあと、会話を打ち切るように黙り込んでしまった。次に訪ねるときは、もっと丁寧に、もっと準備をしてから問わなければならない。
朔は窓の外を見た。雪はまだ降り続いていた。
白妻村の由来を、朔は調べたことがなかった。来たばかりのころは授業の準備で手一杯で、村の歴史資料などに目を向ける余裕がなかった。学校の書棚に、郷土誌の類いがあったはずだ。薄い冊子で、埃を被っていた。
明日、確かめよう。
そう思いながら布団を敷き、朔は横になった。
眠れないと思っていたのに、意識はすぐに落ちていった。
夢を見た。
雪の中に、一本の道があった。朔は子どもだった。手を繋ぐ大人がいたが、顔は見えなかった。ただ、その手は大きくて温かく、父の手に似ていた。
道の奥に、家があった。古い、木造の家。
縁側に、白い着物を着た女が座っていた。
女は朔を見て、微笑んだ。
「おかえり」
その声が耳の奥に落ちた瞬間、朔は目を覚ました。
天井を見つめた。心臓が速く打っていた。
夢の中の声は、人間のものではなかった。人形の声、と言えばいいのか。いや、それよりも古い何か。百年分の時間を通り抜けてきたような、乾いた、しかし確かに温度のある声。
朔は額の汗を拭い、起き上がった。
窓の外はまだ暗かった。雪が降り積もる音だけがしていた。
おかえり、と、その声は言った。
どこかへ帰ってきた者に向ける言葉。それは朔に向けられていた。
自分は、この村に何かを持って生まれたのかもしれない。そして、それは呪いではなく——その呪いを終わらせるための何かかもしれない。
まだ確証はない。ただの直感だ。しかし朔は教師として、合理として、ずっと直感を排してきた。今夜初めて、その直感を手放さずに持っていようと思った。
白瀬と白妻。
父と、父が語らなかった故郷と、幼い朔が見た人形と、「返し言葉」と。
それらはすべて、一本の見えない糸で繋がっているのではないか。
朔はもう一度布団の中に潜り込んだが、今度は眠れなかった。
夜が明けたら、郷土誌を開こう。
そして志津に、もう一度会いに行こう。
今度は、自分自身のことを、問わなければならない。