朝から空が低かった。
鉛色の雲が山の稜線を喰い、白妻村はいつもより狭く見えた。朔が宿舎の窓から外を眺めると、校庭の隅に積もった雪が薄汚れた色をしていた。新しい雪が降らぬまま数日が経ち、古い雪だけが居座り続けている。溶けることもなく、かといって美しくもなく、ただそこにある。この村の時間に似ている、と朔は思った。
夢の余韻がまだ指先に残っていた。
「おかえり」という声。市松人形の唇は動いていなかった。だが確かに聞こえた。白塗りの顔、漆黒の瞳、緋色の打掛。夢の中でその人形は、朔のことをずっと待っていたような目をしていた。
朔は机の前に座り、ノートを広げた。志津の語りを書き留めたページを、もう何度目かわからない目で読み返す。「返し言葉」。父の書斎にあった古い本の背表紙、縁側に置かれていた人形、「さく、あれには触るな」という母の声——断片は浮かぶが、繋がらない。自分の苗字が「白瀬」であることと、この村が「白妻」と呼ばれることの、音の近さ。偶然とは思えなかった。思えなくなっていた。
その日の午後、村に異様な空気が流れた。
朔が小学校の職員室で採点をしていると、窓の外を大人たちが連れ立って歩いていくのが見えた。普段は人通りの少ない農道を、男たちが無言で歩いている。方向は村の中心部、綾部透の屋敷のある方角だった。
「何かあったんですか」
同僚の教師に尋ねると、相手は目を伏せた。
「村の寄合です。今年の……準備の話かと」
それだけ言って、彼女は席を立った。
朔はペンを置いた。
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寄合の内容を知ったのは、夕方になってからだった。
志津の家に向かおうとした朔の前に、村の男が一人立ちふさがった。綾部透の配下の者だった。男は何も言わずに一枚の紙を差し出した。村の回覧板のような体裁をしていたが、その内容は朔の息を止めた。
「奉納の儀、冬至の夜に執り行います——」
日付が書いてあった。今から、二十一日後。
三週間。
朔は紙を男に返し、足を速めた。雪を踏む音が、妙に大きく聞こえた。心臓の鼓動と混ざり合って、頭の中で反響した。
冬至。一年で最も夜の長い日。百年前も、きっとそうだったのだろう。あの娘が連れていかれたのも、同じ夜に。
三週間しかない。
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翌朝、朔は学校に来た紬を廊下で呼び止めた。
紬は今日も静かだった。他の生徒たちが連れ立って教室へ向かう中、彼女だけがいつも少し遅れて歩く。群れない、というより、群れの中に自分の場所を見つけられないような歩き方をする。
「少し時間をくれるか」
朔が言うと、紬は無言で頷いた。
二人は誰もいない図書室に入った。朔は扉を閉め、振り返った。紬は窓際に立ち、外の雪景色を見ていた。その横顔に、少女らしい柔らかさと、何か遠いものを見る老いた目つきが、不思議に同居していた。
「冬至の夜が、儀式の日だそうだ」
朔は言った。
紬は振り返らなかった。「知っています」
「いつから知ってたんだ」
「生まれた時から、知っていました。今年の冬、わたしが選ばれたら、冬至の夜だって」
平坦な声だった。怒りも、諦めも、恐れも、声の表面には出ていない。ただ事実を述べている。それがかえって朔には痛かった。
「逃げよう」
朔は言った。自分でも、言葉が出るより先に体が動いていた。「村を出るんだ。冬至までまだ三週間ある。道が開いているうちに、俺が車を出す。市まで出て、そこから——」
「先生」
紬が静かに遮った。
朔は口をつぐんだ。
紬がようやく振り返った。その目は、泣いてはいなかった。泣くよりも深いところにある、何かを諦めた目でも、なかった。ただ、じっと朔を見ていた。
「逃げても、意味がないんです」
「なぜ」
「人形は夢の中に来ます。村から離れても、夢からは逃げられない。おばあちゃんの話では、昔に逃げた娘がいたそうです。でもその娘は村を出た翌朝、眠ったまま目を覚まさなかった」
朔は息を飲んだ。
志津の話に出てきた名前が、脳裏をよぎった。確かめなかったことが、今になって悔やまれた。
「だから逃げないと決めてるのか」
「逃げないと決めているんじゃないです」
紬は窓の外に目を向けた。校庭の隅の、薄汚れた雪を見ている。
「逃げ場所がないと、わかっているんです」
その言葉の静けさが、朔の胸の奥に刺さった。抜けなかった。
紬は十六歳だった。十六歳の少女が、逃げ場所がないことを知っている。生まれた時からずっと知っていて、それでも毎朝起きて、学校に来て、窓の外の雪を見ている。
「俺は」
朔は声が掠れるのを感じながら言った。「お前を、そのまま渡すつもりはない」
紬が朔を見た。
「先生には、関係がない話です」
「関係がある」
思いがけず、強い声が出た。朔は自分の言葉に驚きながら、それでも続けた。「俺はこの村と、何か深い繋がりがあると思っている。志津さんの話、俺の父の故郷、返し言葉——全部が繋がっている気がする。まだ確かめていないことばかりだが」
紬の目がわずかに揺れた。
「……返し言葉、って」
「知ってるか」
紬はしばらく沈黙した。図書室に、暖房の音だけが響いた。
「人形に聞かされました」
朔の背筋が冷えた。
「夢の中で」紬は続けた。声が少しだけ低くなった。「あの人形は、毎晩夢に来ます。何かを話しかけてくる。言葉ははっきり聞こえないけれど、ひとつだけ聞こえるものがあって」
「それが」
「返し言葉、という言葉でした。誰かを待っているみたいに、繰り返していました」
朔は立っていることが、急に難しくなった。足が、床に根を張るように重くなった。
人形は紬の夢の中で、「返し言葉」を求めている。志津はその言葉を口にした。そして朔は、幼い頃にその言葉を父から——おそらく——聞かされていた。
待っているのは、朔のことではないか。
百年間、誰かを待ち続けている。
「先生」
紬が言った。声が、少しだけ柔らかくなった気がした。「先生が何をしようとしているか、わたしにはわからない。でも」
朔は顔を上げた。
紬の目が、朔をまっすぐに見ていた。いつもの遠い目ではなく、今この場所にいる朔を見ていた。
「先生が来てから、夢の中の人形が、少し変わりました」
「変わった?」
「泣かなくなりました」
それだけ言って、紬は図書室を出ていった。
朔は一人残され、動けなかった。
窓の外で、また雪が降り始めていた。今度は新しい雪だった。白く、静かに、すべてを覆い隠すように降り積もっていく。
三週間。
朔は拳を握った。逃げることはできない。紬を逃がすこともできない。ならば残る道はひとつだ。返し言葉を見つけ、百年前の約束を終わらせる。それだけが、紬を救う方法だった。
だが朔はまだ知らなかった。その夜、透が朔の宿舎の前に立ち、雪の中で静かに待ち続けていたことを。