放課後の職員室には、朔一人が残っていた。

 石油ストーブが低く唸り、窓の外では粉雪がまた降り始めていた。冬至まで三週間。朔はその数字を頭の中で何度も転がしながら、机の上に広げたままの出席簿を見つめていた。何も見えていなかった。紬の名前が書かれた欄だけが、何度確認しても同じ場所にあった。

 ドアが開いたのは、日が完全に落ちた頃だった。

 入ってきたのは紬だった。黒いセーラー服の上に厚手のカーディガンを羽織り、靴下の踵には小さな繕いの跡がある。彼女はいつものように無表情で、しかし扉を閉める手つきだけが、どこか慎重だった。

「先生」と彼女は言った。「少し、いいですか」

 朔は立ち上がりかけて、思い直して椅子を引いた。紬が向かいの椅子に座るのを待ってから、ゆっくりと問い返す。

「何かあったか」

「いいえ」紬は首を振った。「話したいことが、あっただけです」

 外の雪が窓を叩いた。ストーブの炎が揺れ、二人の影が壁に長く伸びた。

 紬はしばらく膝の上に目を落としていた。朔は急かさなかった。この少女が言葉を選ぶときの沈黙には、重さがある。それを知るようになったのは、いつからだろう。

「おかあさんも、十六のとき、選ばれたそうです」

 朔は息を止めた。

「人形に、ですか」

「はい」

 紬の声は平坦だった。感情を削ぎ落としたというより、もともとそこには感情がなかったかのような、静かな声だった。

「おかあさんは、儀式の前に死にました。わたしが生まれてすぐのことです。だから、顔を知らないんです」

 朔は何も言えなかった。紬の母親が死んでいることは知っていた。しかし、十六歳のときに人形に選ばれていたとは聞いていなかった。村の記録にも、そんなことは書かれていなかった。

「どうして」と朔は言いかけ、言葉を変えた。「何が原因だったか、分かっているんですか」

「叔父さんが言っています」

 紬は少しだけ、視線を上げた。窓の外を見るような目をして、しかし何も見ていないような目をして。

「逃げようとしたからだと」

 朔の中で何かが軋んだ。

「透さんが、そう言った」

「はい。おかあさんは儀式を嫌がって、村を出ようとした。だから人形が怒って、命を取ったのだと。叔父さんはそう言います。ずっと、小さい頃から」

 透の声が想像できた。あの男が何の疑いもなく、幼い姪にそう言い聞かせている光景が。怒りが、朔の胸の底で火のように灯った。しかし今、その火を燃やしてはいけないと分かっていた。

「紬さん」

「でも」と紬は続けた。朔の声を聞こえていないかのように。「わたしは、違うと思っています」

 朔は黙って、先を待った。

「おかあさんは、逃げようとしたんじゃない。わたしを産んで、一緒に生きようとしたんだと思います。だから逃げたんじゃなくて、前に進もうとしたんだと、思います」

 紬の言葉は静かだった。静かすぎた。泣いていない。声も揺れていない。それがかえって朔の胸を刺した。この少女は、泣き方を知らないのかもしれないと思った。それとも、泣くことをずっと誰かに許されてこなかったのか。

「叔父さんは嘘をついているんじゃないと思います」と紬は続けた。「叔父さんは本当にそう信じている。おかあさんが逃げた罰だと。だからわたしが逃げれば、同じことになると思っている」

「だから、先生の話を断った」

 朔が言うと、紬は小さく頷いた。

「そうじゃないですよ、先生」

 初めて、紬は朔の目を見た。黒い目だった。深い、真っ暗な目だった。しかし、その奥に何か燃えているものがあった。小さな、しかし消えていない火が。

「わたしが逃げないのは、死ぬのが怖くないからじゃないです。おかあさんが死んだから逃げないわけでもないです」

「じゃあ、なぜ」

「おかあさんが死んで、でも人形はまだいる。次の子が選ばれた。わたしが選ばれた」紬は目を伏せた。「おかあさんが逃げようとして死んで、それでも何も変わらなかった。だから逃げても意味がないと、思っていました。ずっと」

 ずっと、という言葉が空気の中で溶けた。朔はその言葉の重さを測ろうとして、測りきれなかった。

 十六年間、この少女は何を思って生きてきたのだろう。顔も知らない母の死を「逃げた罰」と教えられながら。いつか自分も選ばれると知りながら。逃げることも、抵抗することも、意味がないと信じさせられながら。

「でも」と紬は言った。「先生が来て、変わりました」

 朔は顔を上げた。

「何が」

「先生は、止めようとしている」紬の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。「誰も止めようとしたことがなかった。おかあさんは逃げようとした。でも先生は逃げるんじゃなくて、向き合おうとしている。それが、違うと思います」

 朔は胸が痛かった。向き合おうとしている、と彼女は言う。しかし自分はまだ何もできていない。返し言葉の意味も分からない。呪いを終わらせる方法も分からない。蛭田の老婆が少しずつ話してくれることを繋ぎ合わせて、霧の中を歩いているだけだ。

「紬さん」

 朔は机の上に両手を置いた。

「あなたのお母さんは、どんな人でしたか」

 紬は少し驚いたような顔をした。初めて見る表情だった。

「知りません」と彼女は言った。「写真も、ないので」

「村に、記録は」

「叔父さんが持っています。でも見せてもらったことはない」

 透だ、とまた思った。何もかも、あの男が管理している。紬の母のことも、記録も、そして紬の認識さえも。朔は奥歯を噛んだ。

「先生」

「何ですか」

「おかあさんと、同じ年に、わたしはここにいます」

 紬の声は静かだった。しかしその言葉には、長い時間が詰まっていた。

「それが怖いと言えばいいのか、それとも繋がっている気がして嬉しいと言えばいいのか、わかりません。でも先生には言いたかった」

 朔は何も言えなかった。言葉を探したが、見つからなかった。代わりに、机の上に置いた自分の手の横に、紬の手がそっと置かれているのに気づいた。触れてはいない。ほんのわずかな距離を隔てて、二つの手が並んでいた。

 外の雪は強くなっていた。

 朔はゆっくりと口を開いた。

「あなたのお母さんが逃げようとしたのは、罰を受けたからじゃない」

 紬は顔を上げた。

「そう思います」と朔は続けた。「透さんの言葉を信じるな、とは言えない。でも、俺はそう思う。あなたのお母さんは、生きようとした。逃げたんじゃなくて、生きようとした」

 紬は黙っていた。

「そして、あなたも生きる」朔は言った。「俺が必ず、方法を見つける。三週間ある」

 嘘かもしれないと思った。根拠のない言葉かもしれないと思った。しかしそれでも言わなければならなかった。この少女の前で、沈黙を選ぶことは朔にはできなかった。

 紬は少しだけ、目を細めた。泣いていなかった。しかしその目の奥の火が、少し大きくなったように見えた。

「先生」

「何ですか」

「人形が、昨夜また夢に来ました」

 朔の背筋が張り詰めた。

「返し言葉を、繰り返していましたか」

「いいえ」紬は首を振った。「今度は、違うことを言っていました」

「何と」

 紬は窓の外に目を向けた。雪が、また積もり始めていた。

「『もうすぐ、彼が来る』と」

 朔は息を飲んだ。

 彼。その一言が、職員室の空気の中に降り積もった雪のように、静かに、しかし確実に重さを持って落ちてきた。

 人形が言う「彼」とは、誰のことか。朔はまだ知らない。しかしその言葉が、これまでとは違う何かの始まりを告げていることだけは、骨の髄まで感じていた。

花嫁人形と、溶けない雪の村

24

紬の覚悟

氷室 宵子

2026-06-05

前の話
第24話 紬の覚悟 - 花嫁人形と、溶けない雪の村 | 福神漬出版