手紙が届いたのは、朝のことだった。

 職員室の机の上に、折りたたまれた便箋が一枚置かれていた。差出人の名はなく、ただ「白瀬先生へ」とだけ、見慣れない筆跡で記されていた。紬の文字だと、朔にはすぐわかった。授業中に黒板へ写させるノートで、何度も目にしてきた、あの静かで律儀な字体だった。

 封を開けると、そこには短い言葉だけがあった。

 ――先生に、会っていただきたい人がいます。今夜、志津さんの家へ来てください。

 朔は便箋を手の中で一度だけ折り直し、胸のポケットへ仕舞った。窓の外では雪が静かに降り続けていた。積もっては溶けず、溶けては積もる、この村の雪。

   *

 蛭田志津の家は、村の外れに建つ古い農家だった。雪に埋もれた軒先に、干からびた稲藁が垂れ下がっている。朔が戸口に立つと、老婆はすでに土間に出て待っていた。まるで朔が来ることを、ずっと前から知っていたかのように。

「来たね」

 志津の声は、枯れ木が風に鳴るような音をしていた。朔の顔を見て、細い目をさらに細め、それからゆっくりと奥へ向かって歩き出した。

 囲炉裏の間に、紬が座っていた。膝の上で両手を重ね、炎を見つめている。朔が入ってきても顔を上げなかったが、その頬がかすかに赤くなるのが見えた。昨夜泣いたのだろうと、朔は思った。目の縁がわずかに腫れている。

「座りな」

 志津が促し、朔は紬の向かい側に腰を下ろした。炭の爆ぜる音だけが、しばらく三人の間を満たしていた。

「紬がね、あんたに話してやれって言ったんだよ」

 老婆はゆっくりと言った。

「あたしが今まで黙ってたことを」

 朔は背筋を正した。志津の目が、炎の向こうから朔を捉えている。その視線には、何か奇妙な懐かしさのようなものが混じっていた。はじめてこの家を訪ねた夜、志津が呟いた言葉が不意に耳の奥で甦る。

 ――また来た。

 あの時は意味がわからなかった。だが今、朔の胸の中で何かが静かに身構え始めていた。

「白瀬、という名前」と志津は言った。「あんた、その苗字がどこから来たか、考えたことはあるかい」

「考えたことは、ありませんでした」

「そうだろうね。都会で育てば、苗字なんてただの記号だ」

 老婆は炉縁に手をついて、ゆっくりと朔の目を見た。

「白瀬は、もともとこの村の本家の名前だよ」

 朔の中で、何かが音を立てて止まった。

「本家、というのは」

「白妻村を開いた一族の名だ。村の名も、もとはそこから来ている。白い妻、つまり白装束の花嫁を神に捧げる家、それが白瀬の本家だった」

 窓の外で風が鳴った。雪がガラス戸に細かく当たる音が、砂を撒くように続いた。

「あんたの祖父さんが、この村を出たのは、今から五十年ほど前のことだよ」

 志津は淡々と続けた。まるで古い記録を読み上げるように。

「名前だけを持ち出して、村を捨てた。理由はあたしには言わなかった。でも、あたしはあの人が何から逃げたのか、おおよそはわかっていたよ」

「祖父を、知っているんですか」

「幼い頃に会ったことがある。あの人もあんたと同じような目をしていた。何か、見てはいけないものを見た目だよ」

 朔の喉が、かすかに締まった。

 見てはいけないもの。

 その言葉が、まるで熟した実が木から落ちるように、ずっと封じていた記憶のどこかへ当たった。

「先生」

 紬が初めて口を開いた。炎を見たまま、静かな声で言う。

「夢の中で、桃さんが言っていました。白瀬の血が戻ってきたって」

 朔は紬の顔を見た。少女の横顔は、人形のように整って、しかし確かに今夜は何かが違った。目に、薄い水の膜が張っているような、そういう透明な表情をしていた。

「あんたがこの村に赴任したのは、偶然じゃない」

 志津が言った。

「誰かが手を引いたのか、それとも血が引き寄せたのか、あたしにはわからない。でも、白瀬の本家の血筋がこの村に戻ってくることは、百年前から決まっていたのかもしれないよ」

 決まっていた。

 その言葉が、朔の頭の中で奇妙な反響をした。東京の採用試験を受けるはずだったのに、なぜかこの土地の欠員公募に目が止まった。誰に勧められたわけでもなく、ただ「行かなければならない」という感覚だけがあった。あの時の自分を、今ようやく思い出す。合理的な説明など一つもなかったのに、朔は迷いなくここを選んだ。

 なぜ、と問う前に自分の手が小さく震えていることに気づいた。

 そしてその震えが引き金になるように、記憶が来た。

   *

 朔が七つか八つの頃だったと思う。夏休みに祖父の家へ遊びに行った。どこにある家だったか、もう住所も覚えていない。山の近くで、空気が冷たくて、木の匂いがした。

 夜中に目が覚めて、廊下に出た。

 そこに、人形があった。

 市松人形だった。白い着物を着て、廊下の突き当たりに置かれていた。電気もついていない暗い廊下で、人形だけがぼんやりと白く光って見えた。

 人形は、こちらを向いていた。

 朔は動けなかった。足が床に縫いつけられたように動かず、ただ人形と見つめ合った。人形の目は、ガラス玉のくせに何か深いものを湛えていて、朔は泣き出すことも声を上げることもできなかった。

 そのうち祖父が来て、朔を抱き上げ、部屋へ連れ戻した。

 人形のことは、翌朝には消えていた。祖父は「夢を見たんだろう」と言った。朔はそれを信じることにした。信じることにしなければ、何かが壊れてしまいそうだったから。

   *

「先生」

 紬の声で、朔は現実へ引き戻された。

 囲炉裏の炎が、さっきより低くなっていた。どれくらい時間が経ったのか、わからない。

「大丈夫ですか」

 紬が初めてこちらを向いていた。その目に、かすかな心配の色があった。

「ああ」と朔は言ったが、声がかすれた。「すまない、少し、記憶が」

「戻ってきたかい」と志津が言った。

 朔は老婆を見た。志津はただ静かに、待っていた。

「子どもの頃に、人形を見た。祖父の家で」

「そうだろうね」志津は頷いた。「あの人形はずっとあそこにあった。白瀬の本家から持ち出されたものが、一つだけあったとしたら、それだよ」

 朔の背中に、冷たいものが伝った。

「では、祖父は」

「逃げたんじゃないよ」と志津は言った。「持ち出したんだ。人形を、村から遠ざけようとして。でもあの人形は、戻りたがっていた。ずっとずっと、戻りたがっていた」

 炭が爆ぜた。

 朔は自分の両手を膝の上で見た。震えは止まっていたが、今度は手のひらが熱かった。何かが自分の中で目を覚ましつつある、そういう感覚がした。

「返し言葉」と朔は呟いた。「俺の中にあるという、その言葉は」

「血の中にある」と志津は答えた。「あんたが思い出せるかどうかは、あたしにはわからない。でも、白瀬の本家の血が言葉を持っているのは確かだよ。あんたの祖父さんも、知っていた。だから逃げた」

「逃げた、ということは」

「言いたくなかったんだよ」と志津は静かに言った。「その言葉を言ってしまったら、終わってしまうから」

 終わる、とはどういうことなのか。朔がそれを問おうとした時、紬が再び俯いた。その仕草が、何かを堪えているように見えた。

 朔は問うのをやめた。

 代わりに、雪の音を聞いた。外ではまだ、降り続けている。この村では夜も昼も、雪だけが正直だ。積もり続けて、溶けることを知らない。

 祖父は逃げた。しかし朔は、ここにいる。

 それは何を意味するのか。偶然でないとしたら、誰かの意志があるとしたら。その意志は、一体どこから来ているのか。

 炎がゆらりと揺れた。その向こうで、紬が静かに目を閉じていた。まるで人形のように、静かに。

 朔の胸の奥で、七歳の夜の記憶がまだ燃えていた。廊下の暗がりに白く浮かんだ人形の顔。あの目が何を訴えていたのか、朔はまだ知らない。

 しかしもう、知らないふりはできなかった。

花嫁人形と、溶けない雪の村

31

朔の名前の秘密

氷室 宵子

2026-06-12

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第31話 朔の名前の秘密 - 花嫁人形と、溶けない雪の村 | 福神漬出版