台風はまだ来ていなかった。

 けれども霧積館の空気は、すでにどこか違う圧力をはらんでいた。廊下の窓ガラスが低い声でうなり、遠くの樹々が見えない風に揺れている。透は昨夜届いた匿名のメモを、起き抜けから何度も読み返していた。

 ――研究室の鍵はいつも閉まっています。

 だとすれば、あの扉が開いていたのは誰かの意図だったのか。それとも自分が何かを見るべきだったのか。図の中に記されていた自分の名前が、目を閉じるたびに浮かびあがってくる。

 朝食の席で霞は透の向かいに座り、いつものように何も言わなかった。パンを小さくちぎる指が、異様に白い。窓の外の霧が今日はとりわけ濃く、食堂の灯りが霧の壁に反射して室内全体が水底のように滲んでいた。

 「今日、時間があれば来て」

 霞が言ったのは、食事が終わりかけた頃だった。声は静かで、感情の色がなかった。それなのになぜか透は、断れないと感じた。

---

 霞の部屋は館の北棟の突き当たりにあった。他の患者の部屋と比べて、ものが少なかった。窓辺に一脚の椅子と、その横に古い木製のスツール。本棚には数冊の植物図鑑と、背表紙のない黒い本が一冊。壁には何も飾られていなかった。

 透が中に入ると、霞はすでに窓辺の椅子に腰を下ろしていた。霧の白さが彼女の輪郭をぼかし、まるで館の一部のように見えた。

 「座って」

 スツールを目で示された。透は従った。

 しばらく沈黙が続いた。霞は膝の上で両手を組み、外を見ていた。透は何を待てばいいのかもわからないまま、ただ彼女の横顔を見ていた。

 「あなた、昨日の研究室の話を誰かにした?」

 「していない」

 「富樫さんにも?」

 「誰にも」

 霞は小さくうなずいた。それから、初めて透の方へ顔を向けた。

 「一つ、渡してもいい?」

 透はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。しかし霞の能力を思い出した瞬間、背筋に冷たいものが走った。記憶を渡す。彼女が持つ、その力。

 「渡す、って」

 「私の記憶の一部を。あなたに吸収させるのとは違う。私が意図的に、選んで渡す」

 「……なんのために」

 霞の視線が、透の目の奥に触れるような感覚があった。

 「あなたに見てほしいものがあるから」

 それだけだった。説明も、前置きも、それ以上の言葉もなかった。

 透は少しの間、迷った。他者の記憶が自分の中へ流れ込んでくることは、日常的に起きていた。しかしそれはいつも無意識の事故だった。今度は違う。意図された侵入だ。どこかが傷つくかもしれない、と思った。いや、傷つくというより、また一つ、自分と他者の境界が溶けるかもしれない、と。

 「……わかった」

 透が言うと、霞はゆっくりと椅子から立ちあがった。そしてスツールの傍らに膝をつき、透の左手を両手で包んだ。手が冷たかった。まるで石の温度だ、と透は思った。

 「目を閉じて。力を抜いて」

 透は目を閉じた。

 次の瞬間、何かが流れ込んできた。

---

 それは色彩から始まった。

 黄みがかった光。電球の光だ、と透は思った。古い電球の、心細い橙色。それが部屋の隅々を照らしている。どこかの廊下なのか、部屋なのか、最初はわからなかった。しかし徐々に輪郭が結ばれていく。

 霧積館だ。

 しかし今の館ではない。壁の色が違う。廊下の端に置かれた棚の形が違う。空気の質が違う。ここは十年前の霧積館だ、と透の中の何かが確信した。それが霞の記憶から流れ込んだ認識なのか、自分の判断なのか、もはや区別できなかった。

 記憶の視点は動いていた。廊下を歩いている。足音が板張りの床に吸い込まれる。霧積館特有の湿った匂いがした。カビと木材と、消毒液が混ざったような匂い。

 角を曲がると、灯りのついた部屋があった。扉が細く開いている。その隙間から、泣き声が漏れていた。

 女の声だった。若い。抑えようとしているのに抑えきれない、あの種類の泣き声。声を殺せば殺すほど、かえってひりつく。透は足を止めた。いや、記憶の中の霞が足を止めた。

 扉の隙間から見えたのは、一人の女性だった。床に膝をついて、壁に額をつけるようにして泣いている。白い寝間着を着ていた。黒い長い髪が乱れて、顔を隠していた。

 だから顔は見えなかった。

 ただ、その肩が震えていた。声にならない声で、何かを繰り返していた。唇の動きだけが見えた。透は必死に読もうとした。なんと言っているのか。謝っているのか。怒っているのか。それとも——

 そこで記憶は途切れた。

---

 目を開けると、霞が正面にいた。透の手を包んでいた両手は、すでに離れていた。

 透はしばらく、何も言えなかった。記憶の残滓が体の中に沈殿していく感覚があった。あの泣き声が、まだ耳の内側に残っている。

 「……誰だ、あの人は」

 霞は答えなかった。立ちあがって、窓の方へ戻った。

 「霞さん」

 「これは貸すだけ」

 彼女は外を向いたまま言った。霧がガラスを濡らしていた。

 「必ず返して」

 その言葉には、奇妙な重さがあった。記憶を返す、とはどういうことなのか。透には分からなかった。しかし霞の言い方は、それが可能であることを当然のように含んでいた。

 「……あの女性は、誰ですか」

 「今は言えない」

 「なぜ私に見せた?」

 霞は少し間を置いてから、低い声で答えた。

 「あなたが三島さんの記憶を持っているから」

 透の胸の奥で、何かが軋んだ。

 三島。死んだ男の名前。研究室の図に記されていた名前の一つ。透が吸い込んでしまった、その記憶の欠片がまだ自分の中に眠っている。

 「三島さんと、あの女性が関係している?」

 霞は答えなかった。それがすでに一つの答えだった。

 透は膝の上で手を握った。渡された記憶が、自分の記憶と溶け合おうとするのを必死に区別しようとした。これは霞のものだ。自分のものではない。借りているだけだ。必ず返さなければならない。

 しかしそれがどれほど難しいことか、透は誰よりも知っていた。一度流れ込んだ他者の記憶は、やがて自分の経験と見分けがつかなくなる。それが透の苦しみの本質だった。

 「霞さんは」

 透はゆっくりと言葉を選んだ。

 「その記憶を、ずっと一人で持っていたんですか。十年間」

 霞の背中が、わずかに動いた。肩が一瞬、何かを堪えるように強張った。しかしすぐに元に戻った。

 「それ以上は聞かないで」

 霧が窓を流れていった。台風の気配が、静かに館を包んでいた。

 透は部屋を出る前に、もう一度だけ霞の横顔を見た。あの泣き声は、本当に誰のものだったのか。そして霞は、十年前のあの廊下で、なぜそこに立ち止まったのか。

 扉を閉めると、廊下に礼子の姿があった。

 手帖を抱えて立っている。目が合った。礼子は何も言わなかったが、その視線の中に透は奇妙なものを読んだ。

 後ろめたさ、ではない。

 恐れ、でもない。

 それはまるで——何かを知っていて、それをまだ言うべきではないと判断した人間の目だった。

霧の中の十四番目の証人

9

霞から渡された記憶

朧月 汐音

2026-05-22

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第9話 霞から渡された記憶 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版